教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/16 BSプレミアム 英雄たちの選択「ドキュメント明暦の大火 幕府を変えた江戸の危機」

江戸の町を壊滅させた明暦の大火

 徳川幕府の元で急速に発展を遂げた江戸の町。しかしそれが実は極めて危ういものだったことが判明したのが明暦の大火。防災などという考え自体がなかった江戸の町は、江戸城を初めとして丸焼けになって10万人以上の犠牲者を出した。この事態の収拾に当たった保科正之は、ここで幕府の基本政策の大転換につながる画期的な決断を行ったという。保科正之の決断とは。

 1657年(明暦3年)1月18日、「むさしあぶみ」という作家の浅井了意が書き残した記録によると、この日は北西の強風が吹いていたという。江戸では雨が降らずに乾燥した日が続いていたという。そこで異変が発生する。午後2時過ぎに本郷の本妙寺で火災が発生、その火はあっという間に周囲に燃え広がり、神田川をも船を伝って越えると大名屋敷を焼いて町人の住む人口密集地に迫る。

 当時の江戸の消防は幕府から指名された大名火消しが交代で担っていたが、町民地での火災には出動しないことが多かったことから、町民は皮肉って「消さぬ役」と呼んでいたという。この火災には全く無力で火は町民密集地を襲う。日本橋には川向こうに避難しようとする町民が殺到して身動きが取れなくなったという。このような事態が発生した原因は、車長持という台車付きの長持ちで貴重品を運ぼうとした結果、車が避難経路を塞いでしまったのだという。ここで多くの犠牲者が発生、さらに炎の竜巻である火災旋風までが発生したという。命からがら逃げ出した避難民は隅田川に行き当たるが、当時の隅田川は江戸城防御のために橋が架けられていなかったために、避難民はそこで進退窮まる。ここで多くの命が失われることになる。

 

 

翌日にも発生した出火で江戸城までも焼失

 しかし大火はこれでは終わらなかった。翌日、今度は午前11時過ぎに小石川から出火し、多くの大名屋敷を焼きながら江戸城に迫る。そしてとうとう江戸城の天守が炎上する。天守は本来防火対策を施しているはずだが、その天守に延焼させたのは舞い上がった火の粉だという。木片などが燃えながら上昇気流で舞い上がり、それが天守の開いていた窓から飛び込んで内部から炎上させたのである。火は本丸御殿、二の丸へと延焼する。

 当時の将軍は4代の徳川家綱17才であった。この事態に将軍の避難をどうするかで重臣達が議論する。古参の幕閣が家綱の城外への避難を主張したのに対し、彼らより一世代若い保科正之が反対する。彼は焼け残った西の丸への避難を主張する。将軍が火事に追われて城外に逃げたとなると幕府の権威を失墜させることになると懸念したのだという。彼はこの機に乗じて幕府を滅ぼそうとする動きを警戒していた。実にこの6年前、幕府に不満を持つ牢人たちを集めての倒幕計画である由井正雪の乱が摘発されたところであった。議論の末、保科の意見が容れられて家綱は西の丸に避難する。

 その直後の午後4時過ぎ、今度は麹町から新たに出火する。これで初日に被災を免れた地域も焼き尽くされる。火災は翌朝ようやく治まるがこの火災で江戸の町の60%が焼失する。むさしあぶみは死者の数を十万二千百余人と伝える。江戸は壊滅状態となったのである。急激に拡大したが故に防災を全く考慮されていなかった江戸の町の弱点が露呈した形でもあった。

 飢えと寒さに苦しむ人々に幕府は温かい粥を与えた。これが三週間にわたって行われた粥施行であるという。この米は幕府の米蔵から出された。むさしあぶみの浅井了意はこれを「治世安民の政道ただしき」と高く評価している。また家屋再建のために幕府から資金も与えられたという。保科はこのために幕府の御金蔵を開こうとしたが、それは幕閣から猛反対を食らう。御金蔵の金は軍資金であるという認識で、庶民を救うという発想がそもそも幕府になかったのだという。保科は反対する老中達に「官庫の貯蓄と云ふは、斯様の時に下々へ施し士民安堵せしむる為めにして、むざと積み置きしのみにては一向蓄えなきと同然なり」と言って説得したという。その結果、大名には銀300貫~100貫を10年返済で貸与し、幕臣には金725両~3両を給付、町人には総額で銀1万貫(現在の価値で200億円)を給付した。そして江戸に溢れる遺体を無縁仏として供養したという。

 

 

幕政の形をも転換することになった保科正之の決断

 そして江戸の町の復興と共に、江戸城の再建も始まり、天守台が前田藩の差配によって行われる。しかしここで保科が悩む。町の再建もままならぬこの状況で天守の再建を行うべきかどうかである。天守の再建は莫大な人手と木材を必要とし、江戸の町の再建を阻害することになりかねない。しかし天守とは幕府の権威の象徴であり、江戸城が天守がないとなると諸大名などに軽んじられる原因になりかねない。これについて番組ゲストの見解は天守の建設は凍結するというものと、天守の再建はそもそも江戸の復興とは別の話なので並列で良いのではというものであった。

 ここで保科の決断は天守の建設を凍結するというものであった。天守とは所詮は単なる物見であり、必ずしも必要というものではないという考えであった。なお凍結であるのだから後にまた建設しても良いのであるが、結局は天守は建設されないまま幕末を迎えるとことになる。もう既に幕府の権威を示す装置としての天守は不要な時代になっていたとも言える。

 さらに保科は単に江戸を再建するだけでなく、防災都市として再計画されることにした。まず大名屋敷や寺社などを郊外に移転するなどして空き地を作り、また防災のための広小路も設置した。さらに隅田川にも両国橋を架け、その対岸の本所をニュータウンとして開発、町人だけでなく武家屋敷や神社仏閣も移転した。

 その上で防火体制も再整備した。従来の大名火消しにくわえて常火消しを設立し、旗本をその役に当たらせた。火の見櫓を持った火消し屋敷に常駐する火消し専門の役人が誕生したのである(ちなみに町火消しが設置されるのは、後の大岡越前の時代)。なお大名屋敷の移転については、これまでのように上から命じるのではなく、大名達の希望を聞いて行う形で実施したという。武断政治から文治政治へとの舵取りも行われたのである。そしてこれが後に江戸が100万都市へと発展する基礎となる。

 

 

 保科正之らしい領民のことを考えた施策であるが、封建時代で一般庶民など獣のように考えていた武士が多かったことを思うと、驚くほど先進的で優れた考えである。何かの際にすべて「自己責任」の一言で切り捨て、公助を否定する一方で自分達の私腹を肥やすために増税を目論む自公や維新の権力者に比べると、何と優れていることか。

 保科正之という人物は家光の異母弟であるが、家光に信頼されて家綱のことを託されていた人物でもある。家光も彼の人格に信頼を置いたのだろう。なおこのような優れた人物が権力を持つとその意志が政策に迅速に反映されるのは封建制のメリットではある。

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 とは言うものの、実際には彼のような優れた人物が権力者となる例はむしろ希有で、現実には世襲の馬鹿ボンが独裁権力を振り回して滅茶苦茶する例が多いので、それに対する安全装置として開発されたのが民主主義で今日の制度なのだが、それも民衆がアホの上に奴隷根性が抜けていないと、今の日本のように結果として世襲の馬鹿ボンが権力を振り回して滅茶苦茶するという結果になってしまっている。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・明暦の大火は急速に発展した江戸の町が防災の観点では全く無防備であることを露呈させた。
・3度に渡って発生した火災によって江戸の町の6割が焼失、犠牲者は10万人以上に及び、江戸城も天守を始めとしてかなりの部分が焼失する被害を受ける。
・この江戸の再建に当たり、老中の保科正之は幕府の米蔵を開いて人々に粥の炊き出しを行うと共に、幕臣の反対を説得して御金蔵を開いて大名には資金を貸し付け、幕臣や町人には資金の給付を行った。
・さらに江戸城再建に当たって、町の復興の障害になる可能性があると考え、天守の再建を凍結、結局このまま幕末まで天守は建造されずに終わる。
・江戸の町の再建に当たっても、防災を重視して空き地や広小路を設置するなどを行う。また大名屋敷の移転については希望を聴いて行うなど、それまでの武断政治から文治政治の方向に舵を切る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・徳川綱吉が文治政治を目指したということですが、こうして見てみると既に前の代で保科正之がそちらに向かって進んでいたということのようです。
・ちなみに綱吉は文治政治の方向を目指したのは良いが、生類憐れみの令で無駄に犬の保護のために財政を逼迫させてしまうんだよな。

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