新政府との交渉を一手に任された勝海舟
今回は西郷隆盛との直接交渉によって江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟について。そもそも江戸に迫る新政府軍を率いる西郷隆盛はあくまで慶喜を切腹させるつもりでいたのだが、いかにしてこの交渉を成功させたか。
鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利、慶喜は江戸に逃走して恭順の意を示す。これに対して幕府内でも小栗忠順らのように徹底抗戦を唱える強行派も存在し、幕府内での考えは割れていた。慶喜は小栗を罷免すると勝を総裁に任命して交渉を託す。
勝は元々は41石の旗本の家に生まれたが、若い頃から蘭学に打ち込んだ。この時にオランダ語の辞書を買う金がなかったから、辞書を借りてきて写しを2冊作り、1冊を自分で使い、もう1冊は売って借り賃に充てたというエピソードがある。28才で西洋式兵学の私塾を開講するとだんだんと名が知られるようになり、ペリー来航時に幕府が広く意見を求めた際に、江戸湾に台場を建設して軍隊を西洋化した上で軍鑑を購入するという意見を上げる。これが幕府の目にとまり、長崎に作った海軍伝習所の幹部候補生に選ばれて、オランダ人仕官からの指導を受け、後に咸臨丸での訪米団の一員となって西洋の現状を視察、帰国後は軍艦奉行並を命じられる。勝は神戸に海軍操練所建設を提案する。そこに集まった若者の中には坂本龍馬もいたという。この頃に西郷隆盛とも会い、西郷は勝に心服し、これ以外にも木戸孝允など新政府の中心人物となる者達とも多くの人脈を作ったという。これが勝が交渉役に抜擢された理由である。
西郷を交渉相手に考える
1868年2月12日、慶喜は上野の寛永寺に蟄居して謹慎することで恭順の意を示す。しかし西郷は慶喜の切腹を求めていた。幕府がまだ徹底抗戦するつもりなら十分な軍事力を有していたが、内戦を起こせば外国などが介入してくる恐れがあるというのが慶喜の考えだったのだろうという。あくまで恭順という慶喜の強固な意志を確認すると勝は交渉に臨むことになる。まず幕府側の主戦論を抑えるためにフランスとの関係を解消、フランス人軍事顧問団は解雇されることになる。しかしこれは幕府内での強い反発を買うことになって孤立、命を狙われる羽目にもなったという。勝の命を取るつもりで乗り込んできた武道家に「自分は主君の意を叶えるために全力を尽くしているだけだ」と堂々と言い切り、結局武道家は刀を抜かずに帰って行ったということもあったという。
しかし勝は無条件降伏するつもりはさらさらなく、慶喜の命の保証と徳川家の家臣団の生活保障は絶対に譲れない条件と考えていた。ただ新政府側からなかなか良い返事を得ることは出来ず、そんな時に考えたのが西郷と交渉することだったという。しかしその西郷に送った手紙の内容は「徳川の軍鑑を要所に配置して新政府軍を撃退することが出来る」という強気の内容だったという。
読んだ西郷は激怒したものの、これは新政府軍にとっては実は痛いところであった。この挑発はむしろ新政府軍を早く江戸に入れさせようとしたのではというのが番組の分析。幕府軍がいなくなった後の治安維持を新政府軍に担わせようという腹だったのではとのこと・・・なんだが、どうもシックリこない説明だな。私はもっと単純に「徹底抗戦するつもりならそれなりのダメージを与えるのは可能なんだが、それをあえて恭順の意を示しているんだから、そこを汲み取れ」という意味ではと感じたのだが。
新政府軍が江戸に迫る中でギリギリの交渉
江戸に到着した新政府軍は3月15日総攻撃を決める。この時点で西郷は戦意満々だったという。その頃、勝海舟の元を山岡鉄舟が訪れてくる。慶喜の護衛の任について山岡は、自分が新政府軍と交渉すると勝の元を訪れたのだという。山岡がいざとなったら殺されても良いという覚悟を決めていることに感服した勝は、山岡を西郷の元に送る。山岡は駿府で西郷と会談し、慶喜助命の条件として慶喜の身柄を備前藩に預ける、江戸城を明け渡す、全ての軍鑑・武器を没収するという事実上の無条件降伏の内容を引き出す。山岡はこれを持ち帰って議論すると江戸に引き返す。
勝は交渉決裂の最悪の事態も想定していた。もし戦いになったら新政府軍もろとも江戸の町を焼き払う作戦を立てており、火消しの親方などにもし新政府軍の攻撃があったら合図に合わせて各地に火を付けるように依頼していたという。また江戸の町民を避難させるために付近の漁師にも依頼していたという。勝はそのような最悪の事態を避けるべく西郷との交渉に臨む。
勝と西郷の会談は3月13日に行われた。場所については諸説あるらしい。会談は2日間に渡って行われ、13日は勝が西郷に慶喜助命の条件について確認しただけだという。江戸城に戻った勝は対案である嘆願書をまとめて翌日に提出する。しかしその内容は慶喜の身柄は水戸藩に預ける、武器については処分が下った後に徳川家に必要な分以外を差し出すというもので、条件をそのまま呑んだのは江戸城明け渡しだけだった。これは交渉決裂かと思われるのだが、西郷は1度預かると答えて、結論が出るまでは総攻撃は延期するとして京都へ戻っていく。
西郷を翻意させるための勝の工作
西郷がここで嘆願書を拒否しなかったのには実は勝の裏工作があるという。西郷は前日の13日にイギリス公使のパークスから「慶喜が恭順の意を示しているのなら、攻撃の必要はないのではないか」と言われていた。実は勝が事前にパークスの通訳のアーネスト・サトウに「我々は慶喜公の命と家臣の生活が保障されればどんな条件でも呑むが、それが保障されなければ戦いを辞さないので、その事態を貴国に防いで欲しい。」と嘆願していたのだという。イギリスも戦いとなればイギリス人が巻き込まれる可能性があったことから、薩摩に釘を刺し、薩摩も支援を受けてきたイギリスの意向には逆らえなかったという。
また西郷は感情の面からも釘を刺されていた。篤姫から「徳川家を守って欲しい」との手紙を受け取っており、西郷はその手紙を読んで涙したという。西郷にとって恩人である斉彬の養女である篤姫の願いは無視できるものではなかったという。なおこの手紙についても勝が篤姫に依頼して書いてもらったという説があるとか。
さらに勝はいざという時は、イギリスの軍鑑に慶喜を乗せて亡命させるという策まで考えていたという。しかし幕府側の条件が朝廷にほぼ認められて総攻撃は回避されることとなる。これには裏で西郷の尽力もあったという。明治になって西郷が西南戦争で逆賊として死んだ後、彼の名誉回復のために奔走したのが勝だという。
以上、戦略家勝海舟の知略について。とにかく豪胆な人物であったという印象であるが、実はあちこちに人脈を駆使しての根回しが非常に長けており、そういう点では実に日本的な政治家でもある。
もっともこれで江戸が戦火に焼かれることはなくなったが、結局は幕府側もすんなり全員が恭順というわけには行かず、結局は戊辰戦争が東北に広がっていくことになるわけでもある。勝はどういう気持ちで五稜郭に落ちていった榎本らを見ていたのだろうかという辺りは気になるところではある。
忙しい方のための今回の要点
・勝は下級旗本の出であるが、蘭学を学んだことで名を上げ、ペリー来貢時に幕府が広く意見を集めた時の意見書で幕府に注目されて、長崎海軍伝習所の幹部候補生となる。
・その後、咸臨丸での訪米団に加わった勝は、西洋の現状を目の当たりにする。そして帰国後は海軍操練所建設を行う。
・勝は西郷や木戸孝允など広い人脈を持っており、そのことから新政府との交渉役として抜擢される。
・勝は慶喜の助命のために西郷と交渉することを考えるが、当初は西郷は慶喜を切腹させるつもりであった。
・幕府の使者として西郷と対面した山岡鉄舟が慶喜助命のための条件を持ち帰ってくるが、それは慶喜を備前藩預けとする、江戸城を明け渡す、幕府の武器・軍鑑などをすべて引き渡すという無条件降伏に近いものであった。
・西郷と対面した勝は、先の条件を確認した上で、翌日に対案である嘆願書を提出する。その内容は慶喜の身柄は水戸藩預けにし、武器は徳川が必要とする分を除いて引き渡すというもので、そのまま飲んだの江戸城開城だけだった。しかし西郷はこの嘆願書を持ち帰って検討、総攻撃は一端延期となる。
・西郷が考えを変えた原因は、勝がイギリス公使パークスに働きかけたことで、イギリスが江戸総攻撃に反対したこと、また西郷の恩人である斉彬の養女である篤姫からの手紙などが影響したと言われている。
・朝廷は幕府側の条件をほぼ飲み、それによって江戸城無血開城が実現することになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・この時に江戸が焼け野原になっていたら、新しい時代を迎えるにも日本にとっては甚大な損失になっていただろうし、また戊辰戦争がさらに泥沼になっていた可能性が高く、諸外国の介入を招くことになりかねなかったことを考えると、勝の功績は大きいだろう。ちなみに勝は典型的な「べらんめえ」型で、明治になってからもその調子でしょっちゅう新政府に怒鳴り込んできたという話も聞いたことがある。
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