教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/8 BSプレミアム 英雄たちの選択「追跡!古代ミステリー 海の縄文人」

海に繰り出していった縄文人

 狩猟採取民というイメージが近年になって大きく変化を遂げてきた縄文人だが、海洋を通じての広大なネットワークも有していたということが分かってきたという。北海道の礼文島の縄文遺跡から、日本の南の海に生息していた貝の貝殻が見つかっている。縄文時代には列島全体に渡るネットワークがあったことの証明でもある。

 縄文時代の遺跡から多くの丸木舟が発見されており、巨大なものは7メートル以上の巨大なものもあるという。縄文人はこれらを石斧で作ったのである。彼らが積極的に丸木舟を作っていた理由には、今から6000年前にピークを迎えた縄文海進という海水面の急上昇があったという。陸地の奥深くまで水域が入り込んだことから、船で漁をしていたと考えられる。

 東京都立大学の山田雅久特任教授が丸木舟の復元に取り組んだところ、石斧による製作では直径1メートルの木を切り倒すのに石斧を2万回以上振り続ける必要があり、一艘の丸木舟を作るのに男で20人で1ヶ月の労力を必要としたという。また木を焦がしてから石でこすりつけることで木がしまって防水性が増すなど、木を知り尽くしての技術が見られるという。また湖では平らな船底の船を、外洋に出るところではU字型の巨大なものを作るなど目的に応じた船を製造していたという。青森と北海道の遺跡から全く同じデザインの土器が出るなど、縄文人が明らかに広域で移動していた証拠があるという。

 

 

装飾品から見た縄文人の心理

 縄文人が海に乗り出して行った理由を装飾品から調べているのが考古学者の忍澤成視氏である。その装飾品とは大きな貝殻に穴を開けて作った貝輪。少女の内から装着して、生涯にわたって身につけていたものだという。また儀礼の道具でもあったという。これらの貝輪は1万年以上使われてきているという。忍澤氏が貝輪を復元して調べたところ、縄文後期に爆発的に大流行した貝輪がベンケイガイだという。貝殻が巨大で分厚い二枚貝であり、貝輪の製作に非常に向いており、しかも荒天後に砂浜に大量に打ち上げられることなどもあるので入手も容易であったという。

 一方、ベンケイガイよりも少数派だが、同じ時期に急増するのがオオタツノハという貝殻で作られた貝輪で、これは縄文から古墳時代まで6000年以上脈々と作られ続けたものであるという。縄文時代には北海道から東海までで200点以上発掘されているが、広範囲に広がっているにもかかわらず、集落内での発見個数は少ないという。また詳細な棲息地も分からなかったので流通ルートが不明だったという。忍澤氏は各地を捜索した結果、御蔵島や三宅島などの伊豆諸島南部で発見したという。この貝は大潮の時でないと姿を現さないような場所で生息していたので、荒い海の中で現在の装備を使用してもその採取は危険であり、縄文時代にはまさに命がけだったろうという。オオツタノハは磨くと美しい貝輪になるので貴重だったようで、オオツタノハが入手できなかった地域では粘土で作った模造品まで発見されているという。

 ちなみに番組ではここで、あなたが縄文人ならベンケイガイとオオツタノハのどちらを選択するかということをやっているのだが、これについては杉浦アナが半分噴き出しながら「ユニークな選択」と言っているが、確かにこの番組が「英雄たちの選択」だから無理矢理取って付けたようなところがあり、内容的には全く無意味である(笑)。ちなみに私だったら装飾品の類いには興味なしなので「そもそも貝輪っている?」と言ってしまいそうである。まあこういう男は縄文時代でも非モテ街道を突っ走る羽目になるんだろう。

 

 

回転式銛頭に見る広域の交流

 海に生きた縄文人が生み出した発明品が「回転式銛頭」だという。これは銛の先端につけられて縄が付いており、銛が獲物に突き刺さると柄から離れた銛頭が内部で回転して抜けにくくなるのだという。冷たい海で大型の海獣類を捕獲していた北の縄文人の発明だと考えられるという。この技術が弥生時代になると北海道南部から東海地方にまで広がるのだという。広域の移動による漁労民同士の交流で一気に広がったのではという。また縄文晩期に東北の三陸沿岸で発達した燕型銛頭が三浦半島の弥生時代の洞窟遺跡で見つかったことから、漁労民が実際に三陸から南下してきて先住の人たちと共生したのではという。また農耕遺跡から漁労の道具などが見つかっており、漁労民との交流があったことが推測されているという。


 以上、縄文人の海を介した巨大ネットワークについて。領域が北海道から東海というのが1つのポイントであり、どうやらこの範囲が当時の1つの文化圏だったようである。恐らくこれに対して西日本では九州辺りを中心にして朝鮮半島にまで及ぶ文化圏があったのではないかということが何となく推測できる。

 かなりアクティブな縄文人の姿が浮上してきたが、このような広域の交流があったとしたら、そこに対立や争いなんかはなかったのだろうかということが気になるところである。当時は富の集積ということがなかったので、奪い奪われの戦争は存在しなかったのだろうか? 社会的にみたら富の集積が始まって貧富の差や権力者という類いが登場するのは農耕が始まってからというように思われるので、そうなると弥生以降、本格化するのは古墳時代と言うところか。人間は進化と共に愚かさも拡大した部分がある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・縄文人は海を介しての巨大ネットワークを有していたらしいことが分かってきた。
・実際に縄文遺跡で多くの丸木舟が発見されており、巨大なものは7メートルを超えるものがあり、これらを使用して遠くの海までこぎ出していたと思われる。
・貝輪について調べたところ、伊豆諸島南部で産するオオタツノハという貝によるものが広範囲で見つかっている。この貝を採取するのは命がけであり、当時珍重されていたのではないかと考えられる。
・また北の縄文人が発明したと推測される回転式銛頭が、弥生時代になると東海地方に及ぶ地域にまで広がっていることから、広域の漁労民の交流があったと考えられる。
・また農耕遺跡からも漁具の類いが見つかっており、漁労民と農耕民の交流もあったようである。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・縄文時代はある意味で非常に豊かな時代だったのではという話が最近になってよく出てきてますが、人口もまだそんなに多くないので、人間が自然から収奪せずに共存できた時代だったのかなという気もします。人口が増えてくるとどうしても資源が不足してきて、そこに争いが起こる火種が発生するので。

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