教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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2/20 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「家康の不遇の次男 結城秀康の真実」

家康に疎まれたとされる次男の秀康

 今回の主人公は結城秀康。家康の次男として生まれながらも、家康に疎まれて秀吉の元に人質に出され、結局将軍位を継いだのは弟で三男の秀忠になったという不遇の人物だったとされるが、果たしてその真相は。

結城秀康

 結城秀康が誕生したのは家康が三河と遠江を治める中堅大名だった1574年に浜松城下で生まれる。幼名は於義丸。家康にとっては信康以来16年ぶりの男子だったのだが、家康は於義丸に会おうともしなかったといわれている。この理由については於義丸の生母である於万の方が築山殿の腰元だったために築山殿の嫉妬を恐れたと言われている。しかし歴史家の加来耕三氏によると後世に作られた全くの出鱈目だという。当時は築山殿は岡崎城に、家康は浜松城にいたので、於万の方が築山殿の腰元だったら浜松城にいるのはおかしいという。於万の方が浜松城外で出産したのは、当時は武田との戦いに備えて浜松城が改築中だったからだとのこと。ただ家康が於義丸が3才になるまで会わなかったのは事実だという。それを不憫に思った長男の信康が家康との対面を図ったという。なお家康が於義丸に会わなかったのは於義丸が双子として生まれたから不吉とされたとしている。

 なお於義丸の兄弟については於万の方の実家で育てられて全く別の人生を歩んだとか、生まれてすぐに殺されたとか諸説ある模様。ちなみに洋の東西問わずに双子は不吉という考え方があるのだが、それは何てことがない「後でお家騒動の種になりやすいから」である。普通の兄弟なら兄と弟の関係で兄のアドバンテージは明確であるが、双子の兄弟の場合はそれが全く対等なので、どちらが後を継ぐかでお家が分裂しかねないので「不吉」ということであろうと思われる。

 

 

秀吉の元に養子として出されるが

 1579年、信康が家康の命で切腹させられる大事件が発生する。これは信長の命だと言われていたが、近年の研究では家康と対立した信康を家康が粛正したと言われている。これで於義丸が後継者かと思われたが、3年後に秀康は羽柴秀吉の元に養子に出されることになる。これは小牧・長久手の戦い後に秀吉が家康の身内を養子に欲しい願い出たことで、養子と言いながら実質は人質であった。家康は最初は異父弟の松平定勝を考えたのだが、家康と定勝の生母である於大の方が猛反対したことから、11歳になっていた於義丸が養子に出されることになったという。於義丸が家康に疎まれていたからと言われているが、実際は他の子供は幼少で、徳川の代表として送り出せるのは於義丸しかいなかったのだという。

 秀吉と接見した於義丸に対し、秀吉は自分の名と家康の名から一字ずつを取って秀康と名付け、河内の知行1万石を与える。翌年には秀吉が烏帽子親となって元服させる。周囲には秀康のことを人質として軽んじる者もいたが、秀吉は秀康に家紋入りの槍を与えて秀康は人質ではないので軽んじないようにと命じたという。このように秀吉は秀康を大事にしていたが、家康との交渉の道具であったのも事実で、秀吉が家康に上洛を促した時に、それに応じない家康に対し「このままでは秀康を殺すかもしれない」と噂を流したということもあったという。もっともこれは駆け引きのようなもので、それでも頑として上洛を拒絶する家康に対し、秀吉とは自分の母を人質に出すという大技を駆使して家康を上洛させることになる。

 秀吉の九州征伐では秀康は初陣を果たしたが、活躍の機会がなく無念の涙を流したとか。秀康はかなり勇猛な武将であったようである。しかし秀吉が北条氏を下して天下統一を果たすと、秀康は下総の結城家の養子に出される。これは秀吉の側室の淀の方に鶴松が生まれたからであると考えられる。さらには秀康が自分の邪魔をした秀吉の寵臣を切り捨てるという事件があり、秀吉はこの件については相手の方が悪いと秀康を咎めなかったが、秀吉は気性が荒い秀康に危うさを感じたのだと思われるという。そこに後継者のいなかった結城晴朝が秀吉の一族を養子にして家を継がせたいと願い出たので、秀康を養子に送り出すことにしたのだとのこと。こうして秀康は17才で10万1千石の大名結城秀康となる。

 

 

関ヶ原の合戦では重要な役割を果たす

 秀吉が亡くなり関ヶ原の合戦が勃発、この時に家康は秀康に対して上杉に対する押さえを命じる。秀康はこれに対して自身も関西に出陣して武功を上げたいと不満の意を示したらしいが、これについては家康が背後の押さえがどれだけ重要であるかを説いて説得したという。宇都宮城に入った秀康は上杉が攻めてくるといって家臣が動揺した時、上杉景勝に対して「暇なので一戦したいが、こちらから攻めていくか、そちらが攻めてくるかのどちらにするか」と書簡を送ったという。これに対しての景勝の返答は「上杉は留守の時に攻めるようなことはしないから、家康が戻ってきてから戦う」というものだったとか。家臣は秀康の勇猛さに感心したというが、結局は上杉との戦いのないまま関ヶ原の合戦は終了、秀康はどう思っていたやら。

 しかし家康の後継をどうするかでは、やはり武勇に秀でた秀康よりも、内政に長けている秀忠を選んだという。また早くから遠くに出した秀康と違い、秀忠は手元で育てて帝王学を叩き込んでいたということもあったという。もっとも関ヶ原後の論功行賞では秀康の働きは大であるとして下総10万1千石から越前68万石に大加増している。越前に入った秀康は福井城を建造して城下町を整備する。秀康が越前拝領の礼として江戸に参勤した時には秀忠が兄を品川まで出迎えたという。秀忠は秀康を尊敬していたのだという。しかし福井城が完成した頃から秀康の体調が悪化する。それを聞いた家康は秀康が平癒したら100万石に加増するという書状をしたためたらしいが、その書状が届く前に秀康は1607年に亡くなる。家康はその死を悲しんだという。


 以上、番組の主旨としては「秀康は家康に疎まれていた」と言われていたが、実はそんなわけではないという主旨のようだが、実際のところはやっぱり疎まれていたんではという気がしてならん。家康はそもそも徳川家の存続については非常に執着していたが、身内に対しての愛情は薄いとも言われていて、長男のことはあっさりと粛正していたりなど冷酷なところが見え隠れする。自身も子供の頃に人質に出されたりなど、父親から大概な扱いをされているから、そのせいもあるのかもしれない。秀吉から養子を求められた時に、他に託せる者がいなかったという表現になっていたが、実際は家康が何が何でも秀康を嫡男として後を継がせるつもりなら養子には出さなかったと思うのだが、それが実際には人質同然の養子に出しているんだから、その時点で自分の後継には考えていなかったのは明白である。関ヶ原の合戦後に後継を秀康にするか秀忠にするかで家臣に諮ったという話があったが、それは秀康を後継に考えていたというよりも、予想外に秀忠がボンクラだったから、本当に秀忠で良いのかという迷いが出たというのが本音だろう。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・結城秀康は家康の次男であったにもかかわらず、将軍を継いだのは三男の秀忠であったことから、家康に疎まれて冷遇されたと言われている。
・秀康こと於義丸の母は於万の方だったが、彼女が築山殿の腰元だったため、築山殿の嫉妬を恐れて家康は於義丸と面会しようともしなかったと言われているが、これは後世の創作で、実際には於万の方は正規の側室だった。
・家康が於義丸を疎んじたのは、彼が双子として生まれたので不吉とされたことによるという説がある。
・長男の信康が家康との対立によって切腹に追い込まれたことで於義丸は嫡男となるが、秀吉が家康の身内から養子が欲しいと申し入れたことで秀吉の元に養子として送られる。
・養子と言っても実際は人質同然なのだが、秀吉は於義丸に自身の名と家康の名から一文字づつ取って秀康と名付けると、自ら烏帽子親となって元服させるなどかなり重用する。
・しかし後に淀殿が鶴松を生んだことで養子が不要になり、結城家に養子に出されることになる。これについてはあまりに気性の荒い秀康に秀吉が危うさを感じたせいもあるとされている。
・秀吉の死後、関ヶ原の合戦では秀康は家康から背後で上杉を抑えることを命じられる。武功を上げたかった秀康はこれを不満に感じたが、家康から諭されて務めを果たしている。
・戦いはなかったが無事に背後を守り切った秀康の功を認めて、家康は秀康を大幅に加増して越前の領主に任じ、秀康は福井城を築いて城下町の整備を行っている。
・秀忠は秀康のことを尊敬しており、秀康が江戸に来た時には品川まで迎えに行ったという。
・しかし秀康は体調を崩して若くしてこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・どうも歴史的にもいなかったも同然にされている感のある人物が結城秀康であります。地元では人気のある人のようですが・・・。
・なんか扱いに微妙なところ感じるんですよね。家康は家光が三代目を継ぐ時には「長男相続が基本原則」ということにしてるんですが、それなら何で秀康でなくて秀忠が継いだんだって話ですが。

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