教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/1 BSプレミアム 英雄たちの選択「"好奇心将軍"徳川吉宗が挑んだ日本再生」

好奇心の強い異色の将軍だった吉宗

 様々なことに好奇心を示し、新しいことに積極的に取り組んだのが徳川吉宗であるが、今回は彼の行った取り組みの中でも薬草国産化について取り上げている。

 吉宗は非常に好奇心の強かった人物である。オランダ商館長の江戸参府を楽しみにしており、商館長と直接に語り合うのを楽しんでいたという。商館長をあらゆる質問攻めにしたようであるが、それだけでなく外国の品々にも興味を示してしばしば注文したという。

徳川吉宗

 そもそも吉宗はその出自から異色の将軍だった。紀州藩主の4男として産まれるが、母の身分が低かったことから、そもそも藩主にさえなれる立場ではなかった。それが兄たちが次々と病死したことから藩主に就任することになる。吉宗が藩主になった時の紀州藩の財政は火の車だった。それを吉宗は質素倹約と新田開発などで立て直しを図る。またこの時から目安箱を設置し、身分に関係なく良い意見は取り入れた。その結果、5年で財政再建に成功する。それで7代将軍家継が亡くなった後に将軍に選ばれる。そして紀州で成功した方法に基づいて始めたのが享保の改革である。

 

 

海外からの図鑑を元に薬草の国産化に取り組む

 まずは全国の統計データなどを集めて現状を知るところから始める。さらに漢訳洋書の輸入を緩和して、科学や医学などの最先端の西洋の情報を入手する。彼は自らも海外への知識を深めていたという。海外の優れた点は積極的に学ぶ姿勢を示す。またこの時代は天候不順による凶作などが問題となっており、吉宗は海外の書物から甘藷やココヤシなどを救荒作物として栽培に乗り出し、実際にサツマイモはこの後に飢饉を救うことになる。

 さらにオランダの植物学の図鑑である草木誌を見た吉宗は、この図鑑を和訳させる。当時の日本は200種類近い薬草を海外から輸入しており、それが国内からの金銀の流出の元となっていた。図鑑には詳細な植物の姿が描かれていたことから、似たような植物が国内にないかを調べて薬草の国産化を目論む。吉宗はそのために紀州藩主時代から起用していた専門家軍団でプロジェクトチームを編成する。蘭学に長ける本草学者の野呂元丈、漢方医で本草学者の丹羽正伯、農民出身の経験を買われて起用されている下級藩士の植村政勝、中国で本草学を学んだ阿部友之進である。彼らを採薬師に任命すると、彼らは諸国で薬を探す任務に当たることになる。

 彼らの調査によって中国からの輸入に頼っていた約70種の薬草が日本に自生していることが分かった。さらに植村が地元の農民からドクダミ、ゲンノショウコ、センブリなどのその地域でのみ知られていた薬草などの情報を集める。こうして100種類ほどの薬草を持ち帰ると幕府の薬草園で栽培され、販売などまで幕府が一貫して手がけることとなった。

 

 

朝鮮人参の国産化に取り組む

 この事業で吉宗が一番求めていたのが朝鮮人参だった。非常に高価な薬草だったのでこれを自給できれば大きかった。そこで吉宗は対馬藩に苗木を入手させて栽培を試みるが、ことごとく枯れてしまう。朝鮮人参は非常に栽培が困難な薬草で成果のないまま10年の月日が流れる。

 そんな中、種から朝鮮人参を栽培する方法が確立される。苗木を使用するのでなく、種を水分を含んだ砂の中で3ヶ月ほど熟成させる芽切りという方法が鍵だった。さらにこれを育てるのには4年と時間が掛かり、その間光に当てないようにしないといけないし、水はけを良くするなど非常に管理が大変なものであった。このために幕府での人参栽培が軌道に乗るには時間が掛かったが、ついには人参が成長して種をつけた。そして1736年、人参栽培に取り組んでいた日興周辺で人参の葉や茎の無料配布が行われる。そして翌年に人参の国産化に目処が立つ。

 ここで吉宗の選択だが、この人参栽培を全国に広げるか、幕府の専売にするかである。ゲストの意見は二つに割れ、幕府の財源にするべきなどの意見があったが、磯田氏は幕府が独占したところで収益はしれているから、逆に幕府が評判落とすのがオチという意見。で、吉宗は実際に人参栽培法を公開した上で種も販売した。その結果、各地で人参の栽培に取り組む農家が登場し、オタネニンジンと呼ばれるようになったという。また会津藩のように藩の特産物として財政に貢献するところまで登場したという。つまりは地域産業育成ともなったのだという。

 

 

 以上、吉宗による地域振興策・・・に結局なっちゃったようです。なお磯田氏は、結果的にはこのことで力をつける藩が出てきて、それが最終的に薩摩などの雄藩を生んだと考えたら徳川幕府の運命にとって大きなことをしているというような話をしていたが、確かにそういう考え方はあるか。

 吉宗は歴代将軍の中でかなり有能な方に入るが、やっぱり母親が低い身分の出身ということで、いわゆる世襲の血の澱みが薄いということと、何よりも身分が低かったことで普通の庶民の生活を知っていたというのが決定的だろう。いくら本人が優秀でも、藩主様でふんぞり返って庶民の生活を知らなかったら、庶民のためになる政策なんて考えもつかないだろうから。ましてや世襲のど真ん中の連中は限られた家の間で血縁関係を作っているから血の澱みもひどいので、そもそも最初から資質に欠けた奴が生まれてくることが多い。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・好奇心が非常に強い人物だった吉宗は、オランダ商館長の江戸参府を楽しみにしており、質問攻めにしたという。
・その吉宗は漢訳洋書の輸入制限を緩和して、海外の優れた技術を積極的に取り入れようとする。
・そんな中でオランダの植物学の図鑑である草木誌を見て、薬草の国産化に乗り出すために紀州時代から知っていた4人の実務家を採薬師に任命して全国の薬草調査を命じる。
・その結果、70種以上の薬草が日本に自生していることが判明し、吉宗はそれらを幕府の薬草園で栽培して販売させる。
・吉宗がもっとも国産化したかったのは朝鮮人参だが、苗木を入手して植えてもすぐに枯れてしまって成功しなかった。
・そんな時、種を水を含んだ砂の中で3ヶ月熟成させる芽切りという方法を行うことで、人参の栽培を行う技術が開発され、数年後には人参の栽培が軌道に乗る。
・吉宗は収穫した種を全国に販売することで、各地で人参の栽培に乗り出す農家が登場、会津藩などでは人参が特産化して藩の財政を潤すことになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・吉宗が薬草園を作って薬草の国産化に乗り出したというエピソードは、吉宗の数々の改革の中では地味エピソードとしてサラッと触れられる程度なんですが、今回はそれに注目したという珍しい内容。しかしこうやって見ていたら、際立つのはやはり吉宗の有能さ。

・以前にサプリかなんかのCMで「オタネニンジンエキス」って言葉が妙に印象に残っていて、オタネニンジンって何だろうという疑問をずっと持ってたんだが、今回は初めてそれが解消した。つまりは特別な人参の種類ではなく、国内で栽培した朝鮮人参ということだったのか。

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