教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/6 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「戦国時代を招いた将軍!?足利義政」

若い頃には期待されていた義政

 今回の主人公は銀閣寺を造ったことで知られるが、政治的には応仁の乱を招いてしまったダメダメ将軍というイメージのある室町幕府八代将軍の足利義政である。さてこの義政、本当にダメダメだったのかというのが今回。

足利義政

 義政は1436年に6代将軍義教と側室の日野重子の次男として生まれる。そして母・重子の従兄弟の家で御今という養育係に育てられる。兄が後継になっていたので、僧侶として生涯を終えるはずだったのだが、父の義教が家臣の粛正などを重ねた結果、それに反発した播磨の守護大名の赤松満祐に殺害されてしまう(嘉吉の乱)。兄の義勝が後継ぎとなったが2年後に10才で病死、当然のように義勝に子供はいなかったので義政に将軍位が回ってきたのだという。しかし義政はまだ8才だったため、管領の畠山持国が政務を代行することになる。この頃は畠山持国と細川勝元が交互に管領を務めていた。

 1449年、14才で元服した義政はようやく将軍として政治に乗り出すことになる。回りの期待も大きく、将軍になる2年前には後花園天皇からは義成という名を賜るがこの名には戈の字が2つ入っており、将軍として武威を持って天下を治めるということを期待されていたのだという。しかし皮肉なことに義政は武人には向かない人物だったらしい。犬追物などは騒がしくて嫌いで、文の方を好む人物だったようである。

 

 

回りの介入や混乱の中でやる気をなくす

 しかし義政の思いに反して、父の義教の圧政の反発で土一揆が発生したり、南朝の残存勢力による蜂起など世の中は混乱状態にあった。また畠山持国の後継問題に端を発した畠山家の内紛が発生する。これに義政は介入して持国の息子である義就を支持するが、持国の弟の子である弥三郎を推す一派を山名宗全や細川勝元が支援したことで優位に立ったことから、義政は弥三郎の家督を認めてしまう。ここで細川勝元の家臣を処刑しようとしたのだが、細川勝元の怒りに触れて失敗、今度は山名宗全を討とうとするが再び勝元の怒りに触れて失敗してしまう。そして持国が死去すると、結局家督を継いだのは弥三郎でなくて義就だった。義政は介入することで徒に事態を混乱させただけだった。

 義政はこの頃に正室として日野富子を迎える。しかし義政は元養育係から側室となった御今に夢中で、母の重子はこのことを快く思っておらず、富子が生んだ息子が幼くして病死すると、御今が呪詛をしたとして流罪にした挙げ句に自害に追い込んでしまう。そのような回りの介入などで段々と嫌気がさしてきたのか、義政は酒宴に明け暮れて政務から遠ざかるようになる。

 1459年には大飢饉で各地で餓死者が続出して、幕府の収入も激減して財政が逼迫していたのに、義政は将軍御所の室町殿の造営を進めるというズレっぷりになったらしい。これに後花園天皇が激怒して嫌味タップリの漢詩を送ったという。さすがに義政もこれで造営を中断(中止ではない)したという。とは言うものの、この時期に母の重子のために高倉御所の造営を開始しているというから、根本的には分かっていないようである。そして1465年には東山山荘の造営を計画を立て始めるが、この計画は応仁の乱の発生で一旦頓挫を余儀なくされる。

 

 

応仁の乱でも混乱を招いただけ

 応仁の乱は第一子の死後に富子との間に子を授からなかった義政が、弟を還俗させて義視と名乗らせて後継者にしたことから始まった。事態がこじれたのは翌年に富子が息子の義尚を生んだことからである。富子は義尚を次期将軍にするように義政に迫るが、義政はまずは義視を中継ぎにしてその後に義尚を将軍にするという曖昧な態度を取る。これで富子が我が子を将軍にするために山名宗全を引き入れる。これは細川勝元が義視の後見人を務めていたことから勢力バランス的に山名宗全が味方に付くと踏んでのことであり、この狙いは的中する。こうして義視を推す細川勝元の東軍と、義尚を推す山名宗全の西軍に分かれて対立が始まり、東軍には畠山政長、京極持清、武田信賢など、西軍には畠山義就、斯波義廉、大内政弘などが付く。そして1467年5月26日、応仁の乱が勃発することになる。この戦いで京は焼け野原になる。これに義政は介入、東西両軍に停戦を命じ、西軍の畠山義就には河内に下って争いを避けるように依頼する。しかしこの過程で義政は細川勝元に迫られて将軍の御旗を与えてしまう。これで義政は明確に東軍に付いたことになり朝廷の役を果たせないばかりか、両者の争いを助長することになる。

 東軍が官軍になったことで西軍の畠山義廉が東軍に寝返ろうとする。これで東軍有利で決着がつくかとなったところで、義政が朝倉孝景の首を差し出すことを義廉に求めたことで義廉は寝返りを諦め、結果として乱は11年の長きに及ぶことになる。乱は1473年の3月に山名宗全がこの世を去り、その2ヶ月後に細川勝元が流行病で病死、両者の息子が和平を結んだことで収束に向かうが、まだ京には西軍の大内義弘と畠山義就が残っていた。将軍の後継問題がこじれて決着がついていなかったからである。複雑なことに、当初は東軍は義視を担いでいたはずだが、戦いは将軍の後継問題そっちのけで山名と細川の争いとなり、さらに義政が東軍に付いたことで息子の義尚も東軍に付き、そうこうしている内に細川に付いていたら将軍になれないと感じた義視が西軍に付いたりなどで、双方が担いでいたはずの人物が入れ替わってしまっていた。西軍の大内らにすれば、ここで自分達が手を引いたら義視が処分されかねないということで辞めるに辞められない状況になっていたのだという。1476年12月に義政が義視と和解し、義視に今後粗略に扱うことはしないとしたことでようやく畠山と大内は引き揚げて乱は終結する。こうして応仁の乱はグダグダで終わる。

 一般的にはこの後に戦国時代にすぐに突入したイメージがあるが、実際は京の町は復興し、義政が亡くなるまでの20年は泰平の世を迎えたのだという。応仁の乱の最中に義尚に将軍職を譲っていた義政は乱収束の5年後にようやく念願の東山山荘の建築を始める。こうして建造されたのが銀閣であり、義政は東山山荘で政務を執っていたが、義尚の成人後にも実権を譲らなかったことを義尚が不満に感じて酒に溺れるようになり、25才で亡くなってしまう。そして義政もその翌年にこの世を去る。

 

 

 というわけで、義政自身はいろいろと考えていたこともあったようであるが、結果としてはグダグダで要らぬ介入ばかりして事態を混乱させたということにならざるを得ないようである。

 そもそも政治家には向いていないなりに、将軍として頑張ろうという気はあったのだが、外野はいろいろと五月蠅い上に介入してくるし、思っていたよりも将軍の権威はないしということで、ついには全てを投げ出して現実逃避してしまったのだろうという気がする。まあそういう意味では不幸な人であるが、実際は一番不幸だったのは、こんな人物がトップになったせいで戦乱などのグチャグチャな世の中に翻弄された庶民達である。彼を見ていると、どうしても「無能な働き者」というイメージしか湧かないんだな。教訓、無能はトップにしてはいけない。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・足利義政は父の義教が恐怖政治の結果暗殺されたことと、兄の急死で将軍位を継ぐことになる。
・当初は本人もやる気があり、後花園天皇からも武を持って天下を押さえることを期待されて義成の名を与えられる。
・しかし当人は実は武よりも文を好む人物で、義教の恐怖政治のツケによる土一揆の頻発に旧南朝方の反乱などに振り回されることになる。
・さらに母の重子や妻の富子の介入で側室の御今を自害に追い込んだりなど、混乱の中でやる気をなくして酒浸りになって政務を省みないようになる。
・世の中の混乱の中で東山山荘の計画を立てるが、これは応仁の乱の発生で頓挫する。
・応仁の乱では自身の介入がことごとく混乱を招くことにつながり、結果として乱が治まるのは山名宗全、細川勝元の両者が亡くなった後になり、11年も続くことになる。
・乱の最中に息子の義尚に将軍位を譲った義政は、乱終結後に東山山荘の建造を開始し、東山文化を花開かせることになる。
・しかし義尚成人後も政務の実権を渡さなかったことから、不満を抱いた義尚は酒浸りになって25才で亡くなり、義政自身もその翌年に亡くなる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・今回の主旨は「義政はただの無能な将軍ではない」ってことだったと思うんだが、終わってみたら「やっぱり義政って無能だった」って結論にならざるをえんのだよな。悲しいことに。無能なら無能でせめて無害なら良かったんだが、結果としては思いっきり有害だったし。まああえていうなら、こんな乱世にこんな人がトップになったのが悲劇。平和な時代だったら文化的将軍として名前が残ったろうに。
文化人タイプの人に泥臭い政治なんてさせたらいけないということの実例でもある。

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