文化に通じた文武二刀流武士の生涯
武士でありながら和歌などの文化に通じ、そのことによって乱世を渡り歩いた細川幽斎(細川藤孝)の生涯について紹介する。
細川藤孝(後の幽斎)は1534年、京で将軍側近の父の元に生まれ、13才で将軍義輝の側近としてつかえる。しかしその義輝は三好長慶に京を追放された挙げ句に殺害され、幽斎は義輝の弟の義昭と共に京を脱出することになる。各大名に身を寄せながら幕府再興を目指す中で幽斎は和歌で心を慰めていた。将軍の元を訪れていた和歌の名手の近衛兼家などと連歌会で交流しながら和歌の技法を身につけていく。
その時、幽斎の前に現れたのが織田信長である。信長は義昭の上洛に協力し、義昭は15代将軍となる。しかし信長が自身で政治を動かし始めたことから義昭は激怒、1573年に義昭は反信長の挙兵を行う。苦渋の選択を迫られた幽斎であるが、実はここで幽斎は既に信長に通じていたことを示す書簡が残っているという。幽斎は情を切って実を取る冷静さを持っていたという。
古今伝授を継承し、伝える使命を負う
勝龍寺城を拠点に信長配下の大名として再出発した幽斎は、この頃に古今伝授を継承することになる。これは和歌の精髄である古今和歌集の1100首の解釈の秘伝を伝えてきたものである。幽斎の前任は公家の三条西実枝で、彼は既に60を越えていたが、息子の公国が幼いために伝授が行われておらず、このままでは古今伝授が絶えてしまうことを懸念しており、弟子の幽斎に白羽の矢を立てたのである。幽斎は実枝の古今伝授をそのまま公国に伝えることを求められていた。幽斎は4年をかけて古今伝授を継承、実枝の死後に公国に返し伝授を行う。こうして古今伝授断絶の危機は回避される。
1582年、本能寺の変が発生すると幽斎は信長の菩提を弔うとして即座に剃髪、この時から幽斎となる(この時に明智光秀を裏切ったわけである)。秀吉は幽斎に高い位を与えて文化面でのブレーンとして活躍することになる。幽斎は島津を臣従させる際にも活躍をしている。
しかし1587年、幽斎が古今伝授を伝えた三条西公国が32才の若さで死去、幽斎は再び唯一の古今伝授継承者になってしまう。公国に返し伝授を行った後、古今伝授の集大成をまとめていた幽斎は天皇家への御所伝授を目論む。うまく行けば古今伝授が途絶える心配が無くなると共に、和歌の立場も強化されることになる。そこで文化的素養に優れた人物として知られていた後陽成天皇に古今伝授を申し出る。しかし後陽成天皇は「まだ若い」という理由でそれを拒む。
関ヶ原の戦いでの幽斎の選択
1598年、秀吉が亡くなると徳川家康が台頭、幽斎の息子の忠興は家康支持を打ち出して豊後に6万石の領地を加増されていた。しかし家康に三成が反発、上杉討伐に家康が出向いた留守をついて三成が反家康の挙兵をする。その結果、畿内での家康派の筆頭として細川家が西軍の標的となる。7月18日、田辺城の幽斎の元に西軍1万5千の接近の報告が上がる。兵力の大半は忠興と共に東国にあり、田辺城の残存兵力はわずかに500。ここで幽斎の選択である。武士として城に籠もって徹底抗戦し、城を枕に討ち死にとなっても武士の本懐を守るか、それとも古今伝授の継承のために降伏して生き残るか。後陽成天皇への伝授を断念した幽斎は、天皇の実弟の智仁親王に古今伝授を開始したところであった。しかし戦乱によって講義は途中で中断したままであった。
これに対して磯田氏以外はみな徹底抗戦の選択、そして幽斎も実際に籠城しての徹底抗戦を選んだ。決死の籠城戦は2ヶ月に及ぶ。なお古今伝授については智仁親王に指南書を送って伝授終了としていた(要するに教科書送ったから後は自習してねということ)。しかしこれでは古今伝授が不完全に終わってしまうと後陽成天皇が動く。9月になると天皇の勅使が田辺城を訪れ勅命講和がなされることになり、幽斎はそれを飲み、西軍も矛を収めざるを得なくなる。そして9月18日に田辺城は開場、関ヶ原の戦いの決着がついたのが9月15日なので、田辺城を囲む1万5千の軍勢が関ヶ原に到着しなかったことは勝負に大きく影響したとも言える。
幽斎が智仁親王に伝えた古今伝授は後水尾天皇に伝えられ、御所伝授の形式が整うことになる。大役を終えた幽斎は室町家式という大名の儀式などについての手引き書をまとめる。室町幕府の儀式を江戸幕府に引き継ぐ仕事を行ったのである。そして77才で天寿を全うする。
幽斎は籠城を選択しつつ、実はこういう決着になるべく手を回していたのではないかという話が出ているが、確かにその可能性は極めて高いと思われるだけの強かな人物である。結果として将軍から信長に乗り換え、信長の死後は秀吉に付き、秀吉が亡くなると家康に乗り換えるという巧みな世渡りで人生を全うしており、また和歌で培った人脈を最大限駆使して生き残ったというたくましさを持っている。
大河ドラマ「麒麟がくる」を見ていた人にとっては、幽斎と言えば最初は光秀に「殿を諫める時には私も協力する」というようなことを言っていたにもかかわらず、本能寺の変に際してはあっさりと光秀を裏切って情報を秀吉に流していた狡い男というイメージがあるかもしれない。しかしその冷淡さも戦国の世における彼ならではの処世術であったのだろう。結果としては家名と血筋を後世に残せたのだから、当時の武士としては大成功を収めたとも言える。
忙しい方のための今回の要点
・細川藤孝(後の幽斎)は13才で将軍義輝の側近となるが、義輝が三好に殺害されたことで、将軍の実弟の義昭を奉じて諸大名に身を寄せ、幕府の再興を図ることになる。
・その頃に、和歌の名手の近衛兼家などと交流することで和歌の技倆を上げて人脈を築いていく。
・そして信長と出会い、義昭の将軍就任が実現する。しかし間もなく義昭と信長が対立、義昭が反信長の兵を挙げるが、幽斎は信長について義昭の情報を流していた。
・信長配下の大名となった幽斎は、公家の三条西実枝から古今伝授を伝えられ、実枝の息子の公国に返し伝授を行うことを依頼される。実枝の死後に幽斎は公国に返し伝授を実施し、その後は古今伝授の集大成をまとめる。
・本能寺の変の後は秀吉に仕えて、文化面と共に島津の臣従のための説得など外交に活躍する。
・しかし公国が32才で死去、再び唯一の古今伝授継承者となったことで、幽斎は皇室に古今伝授を行う御所伝授を目論むが、後陽成天皇に拒否される。
・その後、天皇の弟の智仁親王に古今伝授を行うが、その最中に関ヶ原の戦いが勃発、家康に付いていた幽斎は西軍の1万5千の大軍に包囲されることになる。
・幽斎は智仁親王に古今伝授の指南書を送ることで継承は終了したとして籠城戦を行う。しかし2ヶ月の激戦の結果、幽斎と共に古今伝授が絶えることを懸念した後陽成天皇が勅命講和を呼びかけ、幽斎はそれに応じて開場する。この時、既に関ヶ原の戦いは決着がついており、結果として幽斎が引き付けた1万5千の軍勢が関ヶ原に参戦できなかったことは合戦の結果に大きな影響を与えた。
・江戸時代になると御所伝授が完全に確立、幽斎は室町時代の大名の儀式についての手引き書である室町家式をまとめて77才で天寿を全うする。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・個人的には私は若干明智光秀に感情移入しているところがあるので、幽斎は裏切り者というイメージがどうしても抜けないですね。彼の立場は分からないでもないんですが。
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