教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/5 BSプレミアム 英雄たちの選択「奔走!家康の最も忙しい年~運命の元亀元年~」

家康にとって最も忙しかった年

 今回は家康が西に東にと合戦に明け暮れた最も忙しい年、元亀元年(1570年)について注目という若干変わった切り口。まあ大河絡みで家康を持ってきたいが、今まで散々やっているせいでネタがないんだろう。実際、この年の家康の合戦は金ケ崎の退き口から始まるのだが、実は金ケ崎の退き口についてはこの番組でつい最近に放送したところである。

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本拠建設の最中に北陸に出陣

 元亀元年(1570年)の1月はまだ改元前(改元は4月)で永禄13年である。信長は将軍の権威を背景にして全国の大名に上洛を命じる。この頃、家康は新たな本拠として見附城の建造中だった。家康は遠江を支配下に治めたことで、領国の西に偏りすぎている岡崎から、政治経済の要衝でもあるこの地に本拠を移そうと巨大な城を建造していた。しかしこの城は完成してすぐに放棄された。それは信長がこの本拠移転に反対したからだという。と言うのも天竜川の東の見付に家康が本拠を置くと、天竜川が増水した際に信長が速やかに援軍を送ることが出来ないからだという。これはその通りなので家康もそれに従ったらしい。

 そして代替地を探していた中で2月に家康は兵を率いて上洛、4月にはそのまま越前への遠征軍に編入される。朝倉攻略戦だが、この後に浅井長政の裏切りで上記の金ケ崎の退き口が勃発することになる。家康は這々の体で5月にようやく本拠に帰り着く。

 

 

さらに姉川の合戦に出陣する

 6月、信長は浅井長政への報復戦に出るが、浅井の小谷城には朝倉からの援軍8000が駆けつけようとしていた。浅井長政の5000と合わせて1万3000になった。そこで信長は家康に北近江への出兵を求める。再度の出兵は家臣への負担をかけるものだったが、家康はこの要請に従う。これはこの時には家康は足利将軍と直接的なつながりを持っており、義昭との関係によって動いたのだという。家康としては将軍と直接的なつながりを持つことは、織田の家臣として取り込まれるのでなく、あくまで信長と対等という立場のアピールには重要だったのだろう。

 なお姉川の合戦では徳川軍が大活躍し、劣勢の織田軍を救って浅井・朝倉軍を壊滅させたとされているのだが、これは後の徳川による脚色があるという(歴史の常だな)。通説では朝倉軍が姉川を押し渡って徳川軍に攻撃を仕掛けたとなっているが、歴史家の太田浩司氏によると、血原や千人斬りの丘などといった合戦に纏わる地名が多いのは家康の本陣側でなくて姉川を渡った北側であり、主戦場はそこではないかという。つまり徳川軍が先に姉川を渡って朝倉軍を攻撃、朝倉軍は小谷城に撤退して徳川がそれを追撃したというのが姉川の合戦の真相なのではと言う。つまりは敵方に大打撃を与えるほどの勝利ではなかったというのである。実際に浅井・朝倉はその3ヶ月後に大攻勢をかけている。

 

 

3ヶ月後、浜松城で腰を落ち着ける暇もなく3度目の出陣

 姉川の戦い後、家康は浜松城の普請に追われる。当時の浜松城は今と違って土作りの城だったという。ここに家臣を移転させるなどかなり苦労していたという。しかしようやく浜松城に入った2日後の9月14日に足利義昭から信長に加勢するように依頼が来る。この時の信長は三好三人衆に本願寺、さらに浅井・朝倉を同時に敵に回して絶体絶命の危機にあった。ここで家康の決断。この援軍要請に応じるべきか断るべきか。

 番組ゲストは援軍要請に応じるが多数派だったが、家康もこの援軍要請に応じる。家康は1万5000の兵を率いて参陣し、加勢は無用と言っていた信長もこれに感謝したことで、家康は信長と義昭の信頼を勝ち得ることになった。さらにこの参陣後、家康は謙信との同盟締結を決意、これは信玄との同盟を破棄して敵対することを意味した。家康がこの決断を出来たのは義昭の信認を得たということが大きいという。


 3度にも渡って遠征を果たすという非常に忙しい年だったが、磯田氏によるとこれで家康軍の結束も強くなったのではとのことで、それがなかったら三方ヶ原で家康が亡くなることさえあったのではと分析しているのは興味深かった。確かに三河勢が戦慣れしたという面はあるだろう。とは言うものの、戦慣れしたにも関わらず武田軍と正面からぶち当たった三方ヶ原ではものの見事に粉砕されたのだから、武田軍がいかに強かったかということでもある。実際、あの時に信玄の急死がなかったら、徳川軍どころか織田軍も粉砕された可能性は高いと私は考えている。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・元亀元年(1570年)は家康にとって3度も信長への加勢のために出陣するという大変な年になった。
・最初は朝倉氏攻略からのいわゆる金ケ崎の退き口である。這々の体で徳川軍が岡崎に帰り着いたのは5月であった。
・その後、6月には姉川の合戦に参加している。なおこの戦いで徳川軍が大活躍して劣勢の織田軍を救って浅井・朝倉軍を壊滅させたというのは間違いで、実際は十分な大打撃を与えていないという指摘がある。
・帰国した家康は新しい本拠として浜松城を建設するが、そこに入った2日後の9月14日に足利義昭から、三好三人衆に本願寺、浅井・朝倉に包囲されている信長を救援するように要請を受ける。
・家康は1万5千の兵を引き連れて参陣、これによって信長と義昭から揺るぎない信頼を得ることになる。これによって家康は信玄との決戦を決意したという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・浅井・朝倉を相手に回してかなり善戦し、「よし、これなら行けるぞ」と意気軒昂となった家康でしたが、実際に武田と当たってみたら敵は想像以上に強かったというところなんでしょうか。見事に信玄の術中に嵌まった挙げ句に、正面から完膚なきまでに粉砕されましたからね・・・。結局家康ってあそこまで滅茶苦茶な負けってのはあれが最初で最後です。まあよく生き延びたものです。

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