震災で壊滅的被害を受けた三陸鉄道
今回は東日本大震災で大被害を受けた三陸鉄道の復旧の物語。
1984年、交通網が存在せず船で時間をかけて行き来するしかなかった陸の孤島だった三陸に、第3セクターの三陸鉄道が開通した。三陸鉄道は地元の人たちにとっての欠かせぬ足であった。
しかし開業から25年、沿線住民の減少で経営は赤字となっていた。2010年、そこに社長として岩手県庁職員の望月正彦が送られる。後2年で定年の望月としては最後の奉公のつもりだった。平和な日々が過ぎ9ヶ月が過ぎた時、あの大地震が発生する。沿岸部は巨大な津波に襲われる。本社は停電のために機能せず、望月は車輌の中からあちこちに連絡をとる(ディーゼル車なのでエンジンをかけると電気が使える)。そしてようやく周辺が落ち着いた2日後、望月は惨状に唖然とすることになる。各地で線路は寸断されて橋脚も流されていた。呆然とする望月だが「三陸はいつ復旧するの?」と聞かれて、この鉄道は地域の人に不可欠であることを感じる。彼は社員を集めて「動かせるところから動かす」という方針を打ち出す。これに対して古参社員の金野淳一は「安全も確認出来ていないし、社員も被災している。とても動かせる状況でない」と猛反発するが、望月は「今動かさなければ何が地域の鉄道だ」と撥ねつける。日頃穏やかな2人が声を荒げての怒鳴り合いとなる。結局震災から5日後にたった2区間だけ列車が走る。
地元のために3年で復旧するという社長の決断
しかし問題はここからだった復旧工事は6年はかかると見られており、このまま廃線もやむないとの声も聞こえてきていた。だが鉄道の廃線はそのまま地域の衰退に直結することが予測出来た。復旧をどこまで早められるかを望月から聞かれた施設管理部長の小田文夫は、ギリギリ3年とはじき出す。それは地元の人が頑張れる限界だと思われた。望月は何が何でも3年で復旧させることを決断、独断で復旧工事を発注する。何かの時には自分が責任を被る人生を賭けた決断だった。
半年後何とか国からの補助を取り付けて(恐らく当時自民党政権だったら、鉄道は廃線にさせて沿線を切り捨ててるだろう)復旧工事が本格的に開始されるが、南リアス線は72ヶ所も破壊されており工事は困難なものだった。西松建設と熊谷組がこの工事に挑む。熊谷組の責任者は木村晃。東北出身の彼は地元のために名乗りを上げたのだった。それに全国から200人の作業員が応援に駆けつける。地元の住民も仮設住宅から通って食事の提供に協力する。
中央の島越で分断された北リアス線の工事はさらに大変だった。島越は脆弱な地盤の上に高架橋が立てられており、それが津波で流されていた。地盤を強化した上で防潮堤を兼ねた高架橋を作る必要があった。ここを任されたのは東急建設所長の筒井光夫。福島出身の彼も自ら志願したものであった。2000本のクイを打っての地盤改良から取りかかる。しかし難儀な地盤に図面は変更の連続、1年後工事は予定よりも2ヶ月も遅れ出す。彼は自宅にも帰れないまま現場に泊まり込む日々が続く。
困難の中、地元の人々の願いを受けて復旧に成功する
三鉄も資金繰りに苦労していた。従業員のリストラもやむをなくなり、震災で歪んだレールを磨いて販売することまで始める。約束した復旧の日は半年後に迫ってきていた。
筒井達の工事は遅れたままで、作業員の疲労もピークになっていた。しかし地元の人々が開通を待っていることに奮い立つ。工期を早めるために通常は土台完成後に行うレールの敷設を同時並行で開始する。複雑極まりない段取りを自ら組み、昼夜突貫で作業を行う。そしてようやく線路が引かれる。そして運命の試運転。不具合は出なかった。ようやくすべての線路がつながった。そして4月、三陸鉄道の復旧がなる。一番列車に乗り込んだ金野は、沿線住民が大漁旗をや横断旗で迎える姿に感動する。
以上、三鉄の復旧物語。とは言うものの、三鉄は復旧したものの政府の地方見殺し政策もあって沿線の過疎化はさらに進行中で三鉄の今後の経営は安泰とは言い難い。下手すると経済性を理由に廃線に追い込まれかねない可能性は存在する。
なおやはり昭和のプロジェクトと違い、多くの人間がいろいろ関与して進められるのが近年の巨大プロジェクトであるので、どうして「主役がハッキリしない」ということになりがちで、それが番組としての盛り上がりに水を差すところはある。三鉄の望月は復旧の英断はしたものの、その後は工事現場に任せるしかないし、工事を担当した木村と筒井が出てきたが、木村は実際は名前が出ただけで、北リアス線で苦労した筒井だけがメインという形。おかげで何となく「熱さ」が中途半端な番組になった感もあり。やはりこの辺りが昭和と平成の時代の違いであり、「今時プロジェクトXって・・・」となる。
ちなみに当時の三陸鉄道は宮古-久慈間の北リアス線と盛-釜石間の南リアス線に分かれていたが、結局は震災の後でJRが廃線にしたい気満々だった山田線の宮古-釜石間(そのせいもあってこの区間の工事はかなり時間がかかった)の営業を引き継ぐ形になって一体化したリアス線として運営されている。この区間については私は三陸鉄道が引き継いで半年後の2019年9月に沿線視察に出向いているが、とにかく沿線の復興がかなり放置されているのがあからさまであった(当時は東京オリンピックが最優先にされていた)。
忙しい方のための今回の要点
・交通網が整備されていなかった三陸で、地元の悲願であった三陸鉄道が1984年に開通して地元の足となる。しかし三鉄は人口減少で赤字経営となっていた。
・そんな時、2011年の東日本大震災で三陸鉄道は甚大な被害を受ける。廃線という声も出たが、社長の望月正彦は地元の人々の要望を考え、3年で復旧させるという決断をする。
・しかし工事は難航した。特に島越で分断された北リアス線は地盤改良から行う必要があり、工事責任者の東急建設所長の筒井光夫は現地に泊まり込みながらも、予定よりも遅れてしまう工事のスケジュールに頭を悩ませる。
・だが土台の建設とレールの敷設を同時進行で昼夜突貫作業を実施するという大技で、何とか工期を間に合わせる。
・そして約束の3年後の春。三陸鉄道の一番列車は沿線住民に大漁旗や横断幕での歓呼を受けながら出発をする。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ実際に三鉄がしんどいのはこれからだと思います。望みの観光の方も決して順調とは言いにくいところもあるようだし、能登地震でも明確になった「自分達の利権につながらない地方はすべて切り捨てる」という国の政策のせいで沿線人口も減る一方ですから。経済的に破綻しないようにいつまで維持出来るか。
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