教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

5/20 NHK-BS 英雄たちの選択「よみがえれ大仏~重源 61歳からの挑戦~」

重源の大仏再建プロジェクト

 源平の争乱の混乱の最中に平氏に焼き討ちにされた東大寺の再建に挑んだ重源が今回の主役。

大仏再建に取り組んだ重源上人

 大仏殿の横のかつて七重の塔があった場所から焼けた土台が見つかったという。これは平氏による南都焼き討ちによるものである。平清盛の命で奈良の寺社勢力を攻撃した重衡は寺々に火を放ったが、それが燃え広がって東大寺や大仏殿を焼きはらってしまったのである。その後の朝廷による調査によると、大仏の首は落ち、手は折れて横たわっていて、灰は積もって大きな山になっているという惨状だったという。調査に同行した職人達は再建不可能と匙を投げたという。

 しかしその困難な事業に名乗り出たのが重源であった。61歳の重源に朝廷は東大寺の復興を託す。重源は宋に渡り天台山などで修行して最先端の知識などを習得していたのだという。1181年に重源をリーダーにして東大寺復興プロジェクトが開始されるが、問題は多額の費用であった。試算によると現代の価格で4657億円が必要だという。しかし東大寺は没収されて資金はなく、源平騒乱が激化した混乱の中で税収が途絶え、朝廷にもその資金はなかった。そこで重源は広く庶民から寄付を集める勧進によっての資金集めを行う。

 

 

庶民からの寄付によって大仏の再建を行い、次に大仏殿建設に取りかかる

 重源がそのために使ったのが一輪車だという。大仏の完成イメージを描いた一輪車6台を全国に派遣し、「尺布寸鉄一木半銭」(一尺の布でも鉄の切れ端でもという意味で、要はどんなわずかでも良いから寄付して欲しいという意味)と記して訴えて回ったのだという。重源は西行や栄西などの僧の仲間にも協力を求める。しかし問題は大仏を作れる技術者が今の日本には既にいなかったこと。そこで重源は栄西から宋出身の陳和卿を紹介してもらう。重源は彼との出会いを「天の助け」と記しているという。そして焼き討ちの九ヶ月後、職人達は大仏の再建に取りかかる。

 源平騒乱が平氏の滅亡で集結する中、重源は黙々と大仏再建に取り組み、1185年8月ついに大仏の修復が完了して開眼供養が行われる。後白河法皇が開眼の儀式を行う。しかし次の課題は大仏殿の再建だった。しかしこれには巨木が大量に必要で、機内一帯の山林にはそれに適した木材は既になかった。そこで朝廷が重源を周防の国司に命じて、彼は周防に向かう。しかし周防は飢饉で荒廃しており、木材調達どころではなかった。重源は持参した食糧を植えた人々に配り、種籾を与えて農民の生活の立て直しを行う。そしてその一方で木材の調査も行った。重源は木の輸送のために川の水位を上げたリ山中に石畳を敷いたりしたという。重源は木こり達に良い木材を発見したら褒賞を渡すと共に、岩穴の蒸し風呂を作って人々の健康などにも配慮したという。

周防で材木輸送を指揮する重源

 

 

幕府との軋轢、そこからの逆転の一手

 大仏の開眼供養の頃、源頼朝が幕府を成立させて各地に地頭を配した。そのことが周防での重源の活動に影響を与える。周防の地頭達が木材調達のための備蓄米を奪い取ったのだという。重源は頼朝に書簡を送って地頭の取締を依頼するが返答はなかった。このままでは大仏殿再建が行き詰まる。ここで重源の選択である。朝廷にさらなる支援を求めるか、新たに鎌倉幕府に支援を求めるかである。

 これに対してゲストの意見は分かれたが、重源は鎌倉幕府の支援を求めることにした。頼朝は当初は重源の依頼を断るが、4年後に突然に態度を変えて御家人に重源への協力を命じる。これはその間に奥州を落として東の支配を固めたことで西に目を向け始めたからであった。御家人達の協力でプロジェクトは進み始め、重源は慶派の仏師達に仏像製作を依頼する。こうして大仏殿が再建される。なおこの時の大仏殿は室町時代に焼失してしまっているのだが、現在の物の二倍の大きさがあったという。しかし巨大建築故に工事はなかなか進まず、陳和卿に相談したところ大仏様という中国の最新建築技法の導入を勧められる。これは従来の和様よりも非常に強度が高いのが特徴だという。さらに規格が統一されているので大量の部品の加工が効率的であるというメリットがあった。そして1195年、重源が75才の時に大仏殿がついに完成する。落慶法要は頼朝によって行われ、幕府の権威を示すことになる。しかし金剛力士像のあちこちに庶民の名が記されていたりなど、実は重源は庶民と共に工事を進めていたのだという。

鎌倉再建時の大仏殿(現在の物の二倍の大きさ)

 

 

 以上、巨大プロジェクトを実行した重源について。何よりも驚異的なのはこの時代に重源は85歳まで東大寺の復興に活躍していたということ。この時代の平均寿命を考えるとほとんど化物である。磯田氏や番組ゲストらは「とにかくやることのある人物は長生きする」という趣旨のことを言っていたが、実際には志半ばで倒れる者も少なくなく、そう言う意味では「大きな事業を成し遂げたから長生き」というよりも「長生きしたら大事業を成し遂げた」というところもあるのは事実。

 まあそのために重源が人脈の類いをフル活用したのは間違いなく、しかも果敢に頼朝とまで交渉したという行動力は半端ないところである。この行動力を見ていたら、結構押しの強い人物なのではという人物像が見えてきたのであるが・・・。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・源平騒乱の最中、平氏の南都焼き討ちで大仏が焼け落ちてしまう。朝廷からその再建を託されたのが宋への留学経験もある61歳の重源だった。
・重源は大仏再建に必要とする巨額の資金を庶民からの勧進で集めるため、再建された大仏のイメージ図を記した一輪車を6台製作して全国に送り、わずかずつでも良いからと寄付を募っていく。
・1185年8月ついに大仏の修復が完了、後白河法皇によって開眼供養がなされる。
・次に重源は大仏殿の再建に取り組むが、それに必要な巨木は近畿周辺には最早存在しなかった。そこで朝廷は重源を周防の国主に任命し、周防での木材調達を行わせる。
・しかし重源が出向いた周防は飢饉で荒廃していた。重源はまず人々の生活の再建を支援し、その一方で木材の調達のために奔走する。
・しかし鎌倉幕府が成立して地頭が制定されたことから、地頭によって大仏再建のための備蓄食糧が略奪されるなどの事件が発生、重源は鎌倉幕府に書簡を送るが無視される。
・ここで重源は鎌倉幕府に大仏殿再建のための支援を求めることにする。頼朝は当初はその訴えを無視したが、奥州を平定して西に視線が向いたことで大仏殿再建に協力することを決定、御家人達に重源への協力を命じる。
・こうして大仏殿は再建され、頼朝によって幕府の権威をアピールするように落慶法要が執り行われる。しかし重源は実は名も無き庶民達の協力についても忘れておらず、今後力士像に庶民の名が記されていたりするのが見つかっている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・重源は僧であるが、まあ当時の僧にあるように技術者でもあり政治家でもあったようである。特に朝廷や幕府を相手に回しての交渉力はかなり高いものがあったように思われるし、庶民を巻き込むカリスマもあったようである。
・まあそれだけの人物だから、これだけの大事業に成功したんだろうが。

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