教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/29 NHK 歴史探偵「戊辰戦争と会津」

会津軍はかなり精強だった

 今回のテーマは戊辰戦争。日本近代史上最大の内戦で、その中でも会津合戦は一番激しい戦いだった。戊辰戦争において旧幕府軍の中心であった会津藩は新政府軍から目をつけられて武力討伐の対象とされていた。しかし今までこの戦いは進んだ兵器で攻撃する新政府軍に、旧式装備の会津藩は全く歯が立たずに惨敗という文脈で語られることが多いが、実は会津藩はもっと精鋭であり、この戦いはかなり際どいものであったのだという。

 当時の戦いを調査するとのことで、番組は新潟の朝日山を調査している。ここでは新政府軍を会津を中心とする奥羽越列藩同盟軍が迎え撃つ戦いをした。新政府軍は5倍の兵力だったが、同盟軍はこれを退けたのだという。現地を調査したところ、当時の塹壕の跡がまだ残っており、掘り起こしたところ4人ぐらいが入れる小さなものだったという。このような小さな塹壕を多数(現在40見つかっている)作り、これを渡り歩きながら敵を迎撃するという散兵兵法をとったのだという。これは当時の最先端の戦法であった。また新式のエンフィールド銃の弾丸が見つかっており、同盟軍も新型銃を大量に配備していたのだという。これは当時の売買の記録などからも裏付けられているという。

 さらに同盟軍は熊本藩と手を組んで挙兵する計画もあったという。熊本藩は同盟が掲げた衆議で決するという方針に賛同したからだという。これは薩長が独裁的に振る舞ったことに対する反発からのものだという。このことから同盟側も各藩の切り崩しを行っていたという。もしこれが成功していたら新政府軍は背後を突かれることになるので、戦況はまた変わっただろうという。

 

 

会津若松防衛戦での逆転チャンス

 結局会津は鶴ヶ城に籠城するものの敗戦したのであるが、その理由についても分析している。会津は当初は国境で防衛する策を取っていたのだが、警戒の薄かった母成峠を突破されたことで防衛戦術が崩壊したのだとされている。しかしそれでも実は立て直しの方法はあったという。鶴ヶ城に残る少ない兵力を活用して敵を迎撃したら防衛戦の崩壊は防げたとしている。

会津若松の鶴ヶ城

 そこでこの番組得意のシミュレーションを実施している。町の構造を有効に活用する方法で会津軍1000、新政府軍2500で、新政府軍は4割を失ったら撤退という条件でシミュレーション実施。その結果、城下のバリケードでトラップに誘導された新政府軍は十字砲火にさらされて甚大な損害を出し、城には迫ったものの城からの集中砲火で撤退に追い込まれるという結果に。10回のシミュレーションでいずれも勝利したという。

 しかし実戦でこの手が取れなかったのは会津藩の指揮官不足に原因があると推測している。会津藩では松平容保が幕府の要職にあったため、幕府や朝廷との折衝を行う公用方という外交官に多くの人員を割かれていたので、本来指揮官となるべき藩士の訓練が出来なかったのだという。

 さらに同盟軍は衆議で決するとしていたことに足を引っ張られたという。戦闘時は大藩が指導するということになっていたが、これに対する反発があり、どうしても戦場における判断の遅れにつながったのだという。その結果戦況は悪化、すると脱落する藩が出て劣勢に追い込まれたのだという。

 

 

会津復興のための奮闘

 敗戦した会津は20年経っても復興が全く進まなかったという。しかし復興のきっかけとなったのは鉄道の敷設だという。物流のために郡山から会津に鉄道を敷設するべく国に請願を行ったが、それは認められなかったという。しかし県知事の日下義雄が自分達で鉄道を引くことを訴え、現在の費用で1400億円の費用を調達するために演説で出資を募って資金を集めた。その結果、2000人近くの一株株主らが集まったという。明治30年に工事が始まり、2年で開通したという。その結果、会津の地場産品などが全国に販売され、生産量も増加して産業の復興につながった。

福島県知事だった日下義雄

 

 

 以上、会津の戦いについて。ちなみに今でも会津では長州に対する恨みは根深いものがあり、萩市から「もう100年経ったし過去の経緯は水に流して友好都市提携を」と持ち掛けたが、会津若松市は「まだ100年しか経っていないから」と断ったという有名な話がある。侵略した側はもう過去のことと考えても、侵略された側はそう簡単には恨みは忘れられないというエピソードである。

 なお鶴ヶ城で敵を迎え撃つシミュレーションだが、実際のところはあの時点で鶴ヶ城に迎撃できる残存戦力があったかが甚だ疑問である。恐らくあの時点で鶴ヶ城に残存していたのは玄武隊といわれる高齢者の部隊だけで、主力の朱雀隊や青龍隊などは出払っていただろうから、事実上戦闘は不可能だったのではと思われる。

 もっとも現在の歴史は勝てば官軍で、明らかに新政府史観に従っているので、新政府側を実際以上に有能に幕府側を実際以上に無能に伝えているところが多分にある。しかし現実は幕府側にも有能な人材はいくらでもいたし、新政府側も前線の指揮官などはアホ丸出しの無能も少なくなかったというのが実態。まあその辺りは近年になってようやく少しずつ修正されつつあるが(長州の勤王の志士なんて、実際はテロリストばかりだし)。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・会津戦争について、従来は新式装備の新政府軍に対し、旧式装備の幕府軍は相手にならず惨敗したと伝えられていたが、実相はやや異なることが分かってきた。
・新潟の朝日山では会津を中心とする奥羽越列藩同盟軍が、5倍の新政府軍を退けている。この時には各地に小さい塹壕を築き、それを移動しながら敵を攻撃する当時最先端の散兵戦法を駆使している。
・また新式のエンフィールド銃の弾丸が多く見つかっており、同盟軍も大量の新式銃を装備していたことも分かっている。
・会津の防衛戦では母成峠を突破されたことて防衛線が崩壊し、会津は敗退している。しかしシミュレーションによると、この時に城の残存兵力で敵を迎え撃てば撃退も可能であったという結果が出た。しかしそれが出来なかったのは会津の指揮官人材の不足が原因だろうとしている。
・敗戦後、会津では20年経っても復興が進まなかった。そこで知事の日下義雄は自ら鉄道を敷設するべく、幅広く出資を募る。これに多くの住民が協力して郡山からの鉄道が敷設される。その結果、会津の産品が各地に輸出され、会津は経済的に復興する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・会津についての話。まあ例によって今ひとつまとまりのない話でしたが、会津は決して無能ではなかったというところでまずまずの内容では。
・もっともこの後、会津藩士が新政府の嫌がらせで徹底的に地獄を見るなどという件は省略されていますな。まあ今の政府も安倍などに見られるように長州閥の末裔が多いので。

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