突然の派兵要請
徳川幕府がようやく固まった家光の時代。突然に日本に対して明王朝からの援軍要請がやって来る。この難しい外交問題に対して家光がどう対処したかが今回のテーマ。
1645年12月26日、長崎に突然に明国からの使者がやって来て、援軍3000人と武器の供与を求めてきたという。その1年9ヶ月前に明国は農民反乱軍の攻撃で首都北京は陥落し、皇帝は自害して明王朝は滅亡していた。この間をついて満州族の新王朝が北方から侵入して、北京や南京などを落として侵攻してきた。これに対して旧明国の家臣などが皇帝の一族を擁して南明と名乗って福州や広州などに地方政権を樹立していた。この福州の勢力が日本に使者を送ってきたのだという。
この報は家光と3人の老中に報告された。極秘の論議が行われた結果、長崎奉行に対して「日本と明国の国交は100年に渡って途絶えており、明船の入港は密かにおこなれたに過ぎないと使者に告げて、早々に帰国させろ。」との指示がなされた。なおこの件について「急ぎにつき将軍には報告していない」と記されているという。要するに家光はこの決定に関与していないということにしたのだという。これは内々の処理にして影響を最少にしようという目論見だという。
武功を願う大名たちと家光の懸念
しかしこの機密情報は各地の大名に漏れてしまう。幕府が定まったとはいえ、未だに社会に戦国の気風が強く残っていた各大名にはここで武功を上げたいという思惑があった。特に九州の外様大名などがこの情報を事前に察知して、出兵に向けての動きを始めていた。また幕府の要人の中にも、京都所司代の板倉重宗は独自の細かい出兵計画まで定めていた。板倉は2万人の出兵の構想を立てていたという。この背景には彼の弟の板倉重昌が島原の乱での幕府軍の総大将をしたものの、強引な攻撃で大敗して自ら討ち死にするという大失態をしていたことへの汚名返上の意志が強かったのだという。
家光や幕府が出兵に慎重だったのには、ポルトガルが日本に攻撃をすることを警戒していたのだという。島原の乱後、日本はポルトガルの通称を禁じて追放した。それでもポルトガルは日本に通商を求めて使者を送ってきたが、これを日本は攻撃したという。そのために報復の可能性を考えていたのだという。幕府からオランダに対してポルトガル船を攻撃することを依頼したことも残っているという。家光は最新の臼砲の試作などもさせており、当時のヨーロッパの優れた軍事力について知っており、ヨーロッパが本気で攻撃をかけてきたら、日本は太刀打ちできないという認識を持っていたという(当時の日本は武家諸法度などで大名の軍事力削減を進めていた最中である)。
再度の明からの使者に対する家光の対応
幕府が援軍要請を門前払いした8ヶ月後、明からの使者が再び来日、今度は福州の隆武帝の国書を携えていた。使者は家光宛だけでなく、天皇宛の文書も持参し、今度は5000の派兵を求めていたという。徳川御三家なども加えて協議が行われたが、この時に紀州の徳川頼宣は牢人を集めて自分が指揮をとって出兵すると言ったという。この頃、とりつぶされる大名が多かったことから巷には牢人が溢れ、それが社会不安にもつながっていたという。派兵を牢人問題の解決にもつなげようというのだという。ここで家光の決断である。出兵するか断るか。
紀州の頼宣がかなり武に寄った人物だったのは以下でも紹介されている
これに対して番組ゲストの意見は全員出兵しないの結論。要するに出兵しても得るものが無いという話。私も同意見。で、家光も国書の不備を列挙して難癖を付けた挙げ句、書類の不備を理由に援軍要請を拒絶しようとしたという。しかし使者は1ヶ月も帰国しようとせず、日本でも老中達の間で議論が繰り返されたという。しかしそうこうしているうちに福州が陥落して政権自体が崩壊してしまって援軍の意味がなくなったという。そこで大名たちには「出兵の準備をしていたが、書類の不備などを確認しているうちに福州が陥落してしまった」と説明し、幕府の武威を傷付けずに済ませたのだという。その二年後、長崎に二隻のポルトガル船が来訪するという事件が発生、九州の大名たちが出兵して睨み合いになったが、ポルトガルに軍事的な意図はなかったという。家光はその4年後に死去したが、その後も明国からの援軍要請は続いたが、幕府はそれに答えなかったという。
以上、江戸幕府でさえ国益を優先して海外紛争への無駄な関与は避けたという話。それに対してなんの得にもならない台湾問題に首を突っ込んで、中国と戦争だなどと唱えている現在のアホ政治家は何なんだろうか・・・。
まあ彼らの本音は、実際は中国と戦争なんて無理なのは承知の上で、それを口実に大軍拡して国民の福祉を切った上で軍需産業にその予算を回して自分達はキックバックをもらうって辺りなんだろうが。もっとも歴史的に見ていたら、最初は口実だったはずなのが流れが進むうちに本当に戦争になってしまうなんて例は枚挙に暇がないのである。無駄な軍備は往々にして暴走しがち。
忙しい方のための今回の要点
・1645年12月26日、長崎に明からの使者が訪れて、清と戦うために日本に援軍の派遣と武器の供与を依頼する。しかしこの時は家光は使者を追い返す。
・これは極秘裏で行われたのだが、情報を察知した各大名からは武功のために派兵を期待する空気が起こっていた。
・当時の日本は島原の乱以降にポルトガル船を入港禁止にし、ポルトガルからの報復を警戒している時期であった。また家光はヨーロッパの軍事力を知っており、当時軍縮中の日本では太刀打ちできないと考えていた。
・しかし8ヶ月後、再び今度は皇帝の国書を携えた使者が訪れる。これに対して家光は書類の不備を指摘して援軍要請を拒絶、しかし使者は帰国せず幕府でも対応が協議される。
・だが使者を送ってきた福州が陥落、家光は援軍を送るべき理由が消滅したことで、国内向けには「援軍を送るつもりだったが、福州が陥落してしまって出来なくなった」と発表することでメンツを保った。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・日本のお得意の引き延ばしが功を奏した例ではあります。もっとも当時から「とにかく決断せずにグダグダにする」という方法を良くとるんですよね。
・もっともこの手法は、今日ではなかなか通用しない上に弊害も多いです。
・磯田氏が「送るんだったら正式な軍でなく、牢人たちを傭兵の形で」と言っていたが、実際にはこの手もありなんですよね。事実、戦国以降傭兵として大陸に渡った日本人が少なくないって話もある。
前回の英雄たちの選択