藤原純友の乱の真相
最近、歴史探偵で平将門について取り上げられていたが、今回の主人公はそれと全く同じ時期に瀬戸内で反乱を起こした藤原純友について。結局当時の朝廷は西と東で同時に発生した反乱の対応でてんやわんやすることになる。なお藤原純友については、関東にあだ名す悪霊にされてしまった将門と同様、悪逆非道の海賊のイメージがあるのだが、それは実の姿とはかなり異なるという話。
その純友が939年に兵をあげて船を出すと、備前介の藤原子高を襲撃する。子高は純友の配下に捕らえられて鼻と耳をそがれたとか。これが一連の反乱の始まりとなる。翌年の1月には備中の国府が襲撃され、国府軍は敗北して逃亡、さらに同月に讃岐の国府も襲撃されて讃岐介は逃亡した。さらには淡路の武器庫が襲撃されて大量の武器が奪取される。
実は名門出身だった純友
藤原純友はそもそもは摂政であった藤原忠平のいとこの子であり、藤原北家の出身であり血筋としては名門であるという。しかし父が高い官職につく前に亡くなったので、後ろ盾を失ってしまったので不遇をかこっていたようである。50歳前後でようやく得た官職が伊予掾という中堅幹部であった。掾は官位としては六位であるので、五位以上である貴族の扱いは受けられない立場であったという。純友は功績を挙げて五位以上に出世することを願う。そこで伊予で問題となっていた海賊の取り締まりに純友は力を入れる。純友の働きで海賊たちが投降してきて海賊問題は解決するのだが、純友の上司が功績で出世したのに純友には何の恩賞もなかった(よくある論功行賞の不公平である)。
純友の反乱に同調者が多かったのは、地方に土着して有力者となった元役人達には税を巡って受領との対立が広がっていたからだという。これは当時は重税を避けて戸籍から離脱して逃亡する農民が増加して律令制度が崩壊したことから、納税を受領に委ねる形に税制が変更されたことによるという。このシステムだと受領は一定の決められた税だけを朝廷に納めれば良いので、後は農民から搾り取れば搾り取るほど富を得られる構造になっていた。その結果、地方に土着した元役人達が受領からの搾取に不満を強めることになったのだという。
この頃、関東では平将門の乱が発生、朝廷は対応に追われることになる。そして純友の乱勃発の一ヶ月後の940年1月30日に摂政の忠平は、純友に従五位の下の官位を与え、備前介襲撃の下手人である藤原文元を朝廷の軍事の要職である軍鑑に任命、文元討伐軍の進軍も停止させる。忠平は彼らを厚遇することで懐柔しようとした。純友は申し出を快諾して感謝の意を伝えるために都に向かう。しかし2月下旬、淀川河口の関所で入京を拒否される。実はこの時に平将門が討ち取られたとの報が都に届いており、忠平にしたら純友を厚遇する必要がなくなったので手のひらを返したのだった。純友は伊予に引き返さざるを得なくなる。そして6月、忠平は文元討伐の軍を派遣する。文元は敗北して逃走、純友は助けを求められる。
約束を反古にされた純友の選択
ここで純友の選択である。彼らを見捨てて朝廷側に付くか、それとも彼らと共に徹底的に戦うか。これについてゲストの意見は分かれたが、私の意見は「この時点で戦っても分が悪いので、一応朝廷に帰順してから謀略を駆使するしかない」というもの。ただし単純に帰順したのでは謀略のプロである朝廷側に陥れられるのは確実なので、海上における戦力を背景に圧力をかけつつ、貴族の末席とかではなく頂点を目指す(当然のように忠平を失脚に追い込むのだが)しかないと考える。それにそもそも私の意見は、忠平の懐柔策を飲んで中央に復権を考えた時点で甘いとしか言いようがないというのもので、あそこで振り上げた拳を下ろすことは下策で、あのまま朝廷を占拠して忠平に取って代わるところまでいくしかなかったと考えているのだが・・・。中途半端な反乱というのは一番不幸な結末になりやすく、やるなら徹底して世の中ひっくり返すしかない。
で、純友の決断だが、仲間を救援して讃岐討伐軍の背後を突く。その後、瀬戸内で連戦を行うが、途中で足取りが不明となる。そして5ヶ月の空白の後に九州の博多湾に姿を現す。太宰府の攻略を狙ったのだという。純友は太宰府を一時占拠して、太宰府は炎に包まれた。純友は日振島を拠点にして豊後の勢力を配下に収めていたのだという。
純友軍の太宰府占拠の報は朝廷を大いに動揺させるが、その17日後に討伐軍が純友軍を撃滅ししたとの報が届く。純友軍の死傷者は数百人に及び、残党は散り散りになり、伊予に逃亡した純友も追っ手に討たれる。結局は純友の反乱は失敗に終わり、受領による搾取システムも温存されることになる。
事を急ぎすぎた純友に対する反省から、もっと綿密に計画的に権力を奪取したのが平清盛というようなことを磯田氏が言っていたが、確かにそういうところはありそうである。実際のところはドラスティックな社会変革を目指すのであれば、実は武力蜂起というのは下策であり、体制内から巧みに社会変革するのが実は一番確実ではある。ただしそれにはかなりの忍耐と計画性と幸運が必要である。というわけで実は私は一番成功した革命家はゴルバチョフという評価だったりするのである。
番組ゲストがチラッと言っていたが、将門にしても純友にしても、目指していたことは現在の体制の中での栄達であって、社会システムをひっくり返すようなビジョンを考えられていないんですよね。その辺りが彼らの限界で「早すぎた反乱」とも言われる所以。これに対して平清盛は貴族主導の世の中を武士主導に変革するというビジョンを持っていたわけだから、最終的に清盛が成功して彼らが失敗した明暗の分かれ目はそのビジョンの有無だったと私も思うところ。
忙しい方のための今回の要点
・平安時代に瀬戸内で反乱を起こした藤原純友は、そもそも摂政藤原忠平の従兄弟の子で藤原北家につながる名門の出身である。
・しかし父が要職に就く前に亡くなったことで後ろ盾を失い、官職で六位と貴族である五位以上にはなれない不遇の境遇だった。
・50歳前後でようやく伊予掾という官職を得て海賊討伐で功を上げるが、その功績は一切評価されることはなかった。
・この頃、私財を得るべく農民からの搾取を強める受領と、地方に土着して有力者となった元役人達との間で対立が強まっており、純友の挙兵に彼らも呼応して受領を襲撃するなどの事件が発生した。
・同時期に発生した平将門の乱への対応もあって朝廷は混乱、摂政の忠平は純友に従五位下の官位を与えることで懐柔を図り、純友もそれを受諾する。
・しかし謝礼のために入京しようとした純友は、将門の乱が鎮圧されたことで関所で追い返されてしまう。
・さらに忠平は純友の仲間であった藤原文元への討伐軍を送り込み、文元は敗走して讃岐に逃亡、純友に援軍を求める。
・純友はそれに答えて出陣、一時は太宰府の制圧にも成功するが、最終的に討伐軍に敗北して逃走中を追っ手に討たれる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ「早すぎた反乱」というか、純友の時代では今の世の体制をひっくり返すという発想までにはいかなかったんでしょうね。平清盛の時代ぐらいになると、貴族の弱体化と武士の台頭が明確になってきたので、清盛も「これはもしかしたら俺たちでいけるんじゃね?」って考えつくぐらいになったんだろうけど。
・実際に純友の時は討伐軍が最終勝利したわけで、まだ朝廷にはそれだけの力はあったってことなんで。
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