事故を起こさない車を開発する
交通事故による死者が増加する中、事故を起こさない車の開発に挑んだ技術者たちの物語である。
1990年代、若者の無謀な運転などで交通事故死者は年間1万人を越えていた。政府は自動車メーカーに安全な車の開発を求め、エアバックなどが搭載された。最弱メーカーであった富士重工業でも開発プロジェクトが組まれたが、メンバーはたったの4人だった。その1人の十川能之は二台のCCDカメラを利用した運転支援システムの開発を目指していた。この開発を軌道に乗せるために紺野稔浩がリーダーに起用される。どんな時にも怒らない「仏の紺野」と呼ばれている人物だった。しかしその紺野も開発中のシステムを見て、当分実用化は無理だと驚く。なんと映像解析用のコンピュータが荷台を埋め尽くしていた。
そんな矢先、技術提携をしていた日産の技術者がシステムの話を聞きつけて視察に来る。カメラが危険を察知する様を見て顔色を変えた彼らは、この技術を日産に譲って欲しいと紺野に言う。この技術を大手に渡したら自分達は駆逐されてしまうと危機感を抱いた紺野は、会社に掛け合って10人のメンバーを募る。とにかく行動力のある人物が欲しいとかき集めたところ、行動力はピカイチだが何かとトラブルの多い曰く付きの技術者である柴田英司がプロジェクトに加わることになる。試作品を見た柴田は紺野に「こんなものまだ世に出せないですよ」と言い放つ。彼には今まで検査畑ばかりで開発に携われない苛立ちもあった。
1998年、柴田の初仕事は夜の道路で道路状況を認識する実験だった。道路の白線がないことに気付いた柴田は、直ちに走って代用品としてトイレットペーパーを調達してくる。風のせいでなかなかうまく張れないが、柴田は初めての開発現場に喜びを見出しつつあった。紺野は柴田の行動力に開発を任せる。
開発の前に最大の障害が
2000年、交通事故は増加を続け、各社もレーダー搭載車などの安全装備を発表していた。紺野は部長に昇進、次のリーダーには柴田が名乗り出る。開発担当の十川はカメラを改造して車間距離や白線などの様々を認識させるようにする。柴田はこの画像から様々な危険を予知してドライバーに警告するシステムを考え、2003年に8つの機能を搭載した新型車輌を発表する。システム価格70万円。しかしわずか285台しか売れなかった。警報を鳴らしたところで後の操作はドライバー次第。これでは事故は完全には防げない。しかも部品の故障が相次いでクレームが殺到、柴田は自らお客の元に謝罪に廻ることになる。しかしその中で客から「この機能ないと困ります」と言われたことで、自分達の開発していたものに可能性があることに気づく。
しかし直後、会社の経営が悪化して700人規模のリストラが決定される。柴田達の技術もやり玉に挙がり、開発予算は1/20に下げられ、メンバーも削減され、開発の根幹を支えてきた十川もチームを去ることになる(十川氏にインタビューしているが「仕方がない」と言いながらも、ここまで手がけてきた技術から引き離された無念は強く漂っていた)。柴田は紺野に「これから俺はどうすればいいんですか」と思わず叫ぶ。この時に仏の紺野が初めて「それをお前が考えるんだ」と怒鳴る。これで柴田は死に物狂いとなる。
2005年、存続の危機に瀕した運転支援プロジェクトに残ったメンバーは12人だった。入社4年目の丸山匡は「つまらなかったら辞めてやる」と斜に構えていたが、どんな質問でも真っ正面から受け止める柴田に惹かれていく。開発に頓挫して行き場をなくしていた高橋靖は柴田に勧誘されて加わった。柴田は彼らを抱えて必死だった。
窮地の開発を進めるための逆転の一手
ここで紺野が群馬県庁に地元企業への支援を担当する職員がいることを紹介する。開発費に喘ぐ紺野は担当の古仙孝一と会うことにする。古仙は柴田の説明を聞いたときに、このままでは補助金の交付は難しいと判断する(インパクトが弱い)。柴田は考え抜いて自動ブレーキを実現することを思いつく。これは当時、どこの自動車メーカーも実現出来ていないものだった。このアイディアを聞いて古仙はこれならいけると考える。そして半年後に補助金が交付される。ただしそれは開発費の1年分、この1年で結果を出す必要があった。
柴田は開発を若手に託す。ブレーキ制御を託された丸山は実験を何度も繰り返して最適なブレーキの強度を見つけ出す。さらに画像認識を高い精度にする技術も重要だった。チーム全員で日本中の道路を走破するが、夜の雨の問題だけは解決できなかった。反射やにじみで車が認識できない。この問題はライバル会社からの中途入社の齋藤徹に託される。齋藤は苦しんだ挙げ句に、あえて映像を暗くすることで雨粒の影響を廃してテールランプだけを認識させられることに気づく。メンバーは早速雨が降る千葉に乗り込んでテストを実施、見事に車間距離を検出することに成功する。
2007年秋、新機能の社内でのプレゼンの時を迎える。柴田は走る車の前に人形が飛び出すが車が停止して衝突を防ぐ映像を役員に披露する。役員はこれを見て開発のゴーサインを出す。2010年、ついに搭載車が販売され、搭載車の事故率は6割減少して世界で600万台以上売り上げる。
その後、大手も追随して現在は新車にはブレーキシステムの搭載が義務づけられることとなった。4人だったプロジェクトも今は100人以上のメンバーがいるという。なお今は丸山が部長になっており、柴田は役員になったとのこと。途中でプロジェクトから外された十川には全く触れられていないが、当初から手がけていた(画像認識システムの基礎は彼が構築している)にもかかわらず、結局はやり手の柴田に追い抜かれて不遇の状態なのではないかと心配になる(組織の中ではよくあることである)。いかにも押しが強そうな柴田や丸山と違い、十川はいかにもコツコツ型の典型的技術者タイプと見受けられるので、このタイプは大抵組織内での出世競争では割を食うものである。
また画期的新システムを開発した富士重工だが、これで一躍会社が大飛躍・・・という雰囲気でもなく、結局は本腰を入れて開発を進めた大手が一気に自動運転システムの世界を席巻して、今は影が薄いという感を抱かずにはいられないのだが・・・。どうも平成のプロジェクトXはカメラ付き携帯電話の回といい、「本当にハッピーエンドなの?」という展開が多い。まあ平成の経営者は無能が多いから自然にそうなるのだが。
忙しい方のための今回の要点
・1990年代、自動車事故による死者が急増する中、各自動車メーカーは安全な車の開発を求められることになる。
・そんな中で弱小メーカーである富士重工では、十川能之を中心に4人のメンバーで二台のCCDカメラを利用した運転支援システムの開発を進めていた。
・リーダーに起用された紺野稔浩は、画像解析用のコンピュータが荷台を埋め尽くしている試作機を見て、当分実用化は無理だと考える。しかし視察に来た日産の技術者が顔色を変えて技術を譲渡して欲しいと言い出したのを見て、会社に掛け合って10人のメンバーを集める。
・その1人の柴田英司は行動力はピカイチだが、何かとトラブルの多い曰く付きの研究員だった。しかし柴田の行動力を買って紺野は開発を任せる。
・紺野の部長への昇進で開発のリーダーとなった柴田は、十川のシステムを使って車の危険を警告するシステムを開発する。しかし搭載車輌は全く売れなかった上にトラブルが続出した。だが客に「このシステムがないと困る」と言われて自らの開発の可能性を見出す。
・しかし会社の経営が悪化、大規模なリストラが行われ、柴田のチームも人員及び予算が削減されて十川が開発チームを去ることになる。それでも柴田は開発を続ける。
・予算に苦しむ柴田に紺野が県の地元企業支援の交付金を紹介、柴田は自動でブレーキをかけて車を停車させるシステムの開発を謳って、交付金の獲得に成功する。
・開発期間は1年、プロジェクトは様々な難問を解決し、ついに2007年秋に経営陣から開発のゴーサインを得る。
・2010年、発売された搭載車輌は事故率が6割減少して大反響を呼び、累計で600万台を売り上げる大ヒットとなる
忙しくない方のためのどうでもよい点
・弱小メーカーが先行開発しても、すぐに大手が追随してくるんですよね。一旦システムを世に出してしまうと、大手はそれをすぐに解析してコピーしてくるので、その時に肝になる部分の特許をどれだけ押さえているかが勝負になるんですが、大手はそういうのの回避にも長けてるんですよね。ましてや中国のように最初から特許なんて無視してくる国もあるし。
次回のプロジェクトX
前回のプロジェクトX