教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

7/3 NHK 歴史探偵「甲子園100年」

甲子園の歴史

 今回のテーマは甲子園。高校野球に絡んでとのことなんだろうが、正直いきなりどうでもよい感が半端ない。

 甲子園は今年で誕生100年を迎えるとのことであるが、その時から今までほとんど大きさは変わっていない。この球場の設立には阪神電鉄専務の三崎省三の活躍が大きいという。沿線の魅力を高めるために三崎は沿線にレジャーランドを作ることを考え、アメリカのコニーアイランドのようなものを作りたいと、当時アメリカで人気だった野球の球場を作ろうと考えたのだという。三崎は世界一の球場を作ろうと、スタンドの傾斜はどこからでも球場全体が見渡せるようにと設計したという。

甲子園を作った三崎省三

 また甲子園の土は黒土と砂を混ぜたもので野球に適したものである。かつては砂状の硬いグランドが多かったが、このようなグランドでは不規則なバウンドが起こりやすく選手がけがをする危険があったという。様々な工夫を凝らして、1924年に甲子園は完成している。当時の甲子園は遊園地や水族館など様々なレジャー施設を備えていたという。

 

 

野球はメジャースポーツとなるが、戦争に巻き込まれる

 なお最初の甲子園大会に参加する学校数は少なかったという(野球自体がマイナースポーツだった)。しかし甲子園での試合をリアルタイムで伝えるプロヨグラフで試合展開を知らせるなど、様々な工夫で野球人気は盛上がっていった。そして昭和になるとラジオ放送が始まったことで甲子園大会のラジオ中継が行われ、これが野球人気を全国的に盛り上げることになった。1933年の夏の大会の準決勝、中京商業対明石中学の一戦では延長25回まで続く4時間55分の伝説の試合となった。試合終了時、アナウンサーは10秒間沈黙して場内の興奮を伝えたという。そしてこの翌年にはラジオの契約数200万件を突破する。

 しかしその高校野球大会も戦争に巻き込まれる。太平洋戦争開戦の翌年には甲子園大会は戦意高揚に利用された。選手は選士と呼ばれ、戦争を反映して突撃精神でデッドボールを避けることは禁止され、怪我人が出ても選手交代を認めないなどの大馬鹿ルールで実施されたという。試合は盛上がっていたが、球場には戦意高揚のための標語が掲示され、試合中に招集された選手が呼び出されるというような異常な大会だったという。なおこの頃から全国の野球部の廃部が行われることになる。

 再び大会が再開するのは戦後の1947年である。そして1953年からテレビ中継が行われるようになる。しかし最初の中継ではカメラがバックネット裏と一塁側の3台しかなかったという。テレビの本放送が始まったのがこの半年前なので、そもそも球場に持って行けるカメラがこれだけしかなかったのだとか。当然ながら左バッターは背中しか写らないことになるし、ピッチャーの表情などは分からない。そこでその後には5台にまでカメラが増やされる。これでいろいろと細かい表情などが伝えられるようになったと、番組では再現をしているのだが、これはいかにもこの番組らしいが正直全く不要な企画。この後、太田幸司擁する三沢高校と松山商業の伝説の試合の紹介なども行っているが、これも全く私の興味外。

 

 

 と言うわけでまあ野球が特に好きでもない(というか、どちらかいえば最近はうざいと感じている)私にとっては、やっぱり「どうでも良い内容」でした。合間に垣間見えた戦時の事情などから「やっぱり日本の軍部はトコトン馬鹿で、こりゃ戦争なんかに勝てるはずもない」と再確認しただけだった。なお三崎は最初は甲子園を一大レジャーランドとして作ったとのことですが、今では球場しか残ってません。そう言えば私が子供の頃にはまだ阪神パークなる遊園地が存在し、ライオンと豹の雑種であるレオポンなる動物が飼われていた記憶がある。ただその後の関西地区の遊園地閉園ラッシュの中、ひっそりと閉園になってしまった。あの頃に営業していた遊園地は、阪急の宝塚ファミリーランド、近鉄あやめ池遊園、神戸のポートピアランド、さらにはエキスポランドまで全て閉園して、現在でも健在なのは京阪のひらかたパークぐらいか(ちなみに現存日本最古らしい)。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・甲子園は100年前に、阪神電鉄の専務である三崎省三が、アメリカのコニーアイランドのようなレジャーランドを目指して建設した。
・世界一の球場を目指した本格的野球場であり、当時は遊園地や水族館なども併設されていた。
・最初はマイナーなスポーツだった野球も、プロヨグラフで試合展開を知らせるなどの工夫で人気があがり、ラジオ中継の開始で爆発的な盛り上がりとなる。
・しかし戦争が始まると、戦意高揚のための特殊ルール(大馬鹿ルール)で大会が行われたりなどの影響があり、全国の野球部も廃部に追い込まれていく。
・戦後に大会は復活、テレビ中継が始まる。最初はテレビの本放送直後なのでカメラが3台しか確保できずかなり制約があったが、後にこれは5台に増やされる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ本当にどうでも良い内容でした。日本は少し野球が偏重されすぎているようにも思うので。
・ところで100年経って、今は高校野球大会をこの時期の甲子園で開催するのが適切かが議論される時代となりました。もう今の日本で夏場に屋外でスポーツ大会を行うのは無茶だと思います。その内に死人が出そう。

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