流刑地でもあった八丈島
リアル忍者シリーズの次は離島シリーズの模様。今回は昔から島流しの島として知られている八丈島。江戸時代には1900人が流されたというが、その最初は戦国大名の宇喜多秀家だという。そして最後に流された人物が近藤富蔵。彼らは何を考え、何を思って島暮らしを送ったか。その辺りを紹介するという。
番組では実際に磯田氏と浅田アナが八丈島を訪問している。ちなみにやたらに「人気アニメの舞台となって評判に」ということを繰り返しているんだが、八丈島が舞台になったアニメって何だろう? アニオタではない(笑)私には全く分からん・・・と思ってちょっと調べてみたら、どうやら名探偵コナンの最新劇場版らしい。こりゃ私の興味の範囲外だわ。てっきり八丈島娘の萌え系ご当地アニメでもあったのかと思った(そういうアニメも完全に私の興味外だが)。
どうやらこの映画のことを指している模様
八丈島最初の流刑者・宇喜多秀家
本題に戻すと宇喜多秀家だが、関ヶ原で西軍の主将として戦ったが、敗北して逃亡した。秀家の正室が前田家の娘であったことから、前田家に匿われていたらしい。そして1601年に前田家の支援の元で薩摩の島津氏の元に落ち延びたらしい。しかし島津が家康と和睦したことで、その身柄が家康の元に送られることになったらしい。とは言うものの、島津家も秀家を見殺しにしたわけではなく、助命嘆願をしたとのこと。さらには背後には前田家の存在もあったことから、家康もこの時点で秀家をいきなり死罪にするのも難しく、結果としては八丈島への流罪にしたのだという。
一ヶ月かけて息子やわずかな家臣と八丈島に上陸した秀家は、本土とは全く異なる生活を送ることになる。火山噴火で食糧難になっていた島で、秀家は明日葉の根まで食べて飢えを凌いだとか。秀家の窮状を物語るエピソードとして、代官に招かれた秀家は出された食事に手を付けずに、手ぬぐいに包み始めたという。秀家は「これほどのご馳走を見たことがないので、是非とも持ち帰って家族に食べさせたい」と語ったそうだ。秀家の身を案じた前田家の支援で秀家は細々と生き抜いていた状況であると言う。
本土帰還を断って島で生涯を終える
八丈島の宗福寺は宇喜多秀家の菩提寺であるが、住職によると秀家は「実に平凡な人物」と伝わっているという。元中納言である秀家は八丈島に高等な文化を伝えたとのことだが、前田家と島津家へ迷惑をかけないようにあえて平凡に生きようとしたのだろうという。前田家の二代当主の利常は島流しから20年が過ぎたところで八丈島に使者を送ったという。使者は幕府に帰参を願い出て、前田家から10万石の領地を与えたいと伝えたという。これに対して秀家の選択である。本土に戻るか島に残るか。
これについての番組ゲストの意見は分かれたが、島に残るという意見は「今更戻っても」というもので、本土に戻るは磯田氏の「その方が面白い(一波乱起こす)」というもので、今ひとつ現実的でない(笑)。で、私の意見も「今更本土に戻ってもどうするの?」というもの。そして秀家も同じことを考えたようである。前田家に迷惑をかけることも考えたのだろう。そして秀家は島で84才という長寿で没する。皮肉にも中央のストレスフルな生活から離れて、自然環境の中で暮らしたことで長生きできたようである。磯田氏が「長生きした方が勝ち」という類いのことを言っていたが同感。ただ可哀想なのは秀家の正室である。前田家で形見の狭い思いをしたらしい。結局は宇喜多家の罪が許されたのは明治になってからとか。
最後の流刑者・近藤富蔵の生涯
後半は最後の流人である近藤富蔵について。1805年に旗本の長男として生まれたのが近藤富蔵。富蔵は近藤家が隣人農家ともめ事になった時、隣人一家を無礼討ちで斬り殺してしまったのだという。最初は政治犯に限られていた流刑も、この頃には一般的な刑事犯にも科されるようになっていた。また子供で分からないまま人を殺した場合には、一旦親戚に15才まで預けた上で流刑という、更正を目指した方針も掲げられていたという。1827年、23才の富蔵は八丈島に到着する。天保の大飢饉の中で富蔵は食糧の確保に苦しんだことを書き残している。富蔵は自活のために石垣を積んだりあらゆることをして食い扶持を稼いだという。また富蔵は「八丈実記」という記録を残しており、八丈島の生活や風土などを細かく記録していた。これらは歴史文化を知る一級資料だという。
明治時代になると流刑は廃止され、1880年に富蔵も赦免されて東京に帰る。富蔵は2年をかけて日本を旅したが、そこで自分はどう生きていくかを自問したという。ここで富蔵の選択であるが、本土に留まるか島に戻るかである。
結局富蔵は八丈島に戻る選択をした。己の罪に向き合った富蔵は、闘争などの虚しさを思い知り、島での安らかな生活を求めたのだろうという。彼は山の観音堂の堂守をしながら、生涯八丈島の記録を残して83才で没した。晩年には虫一匹の殺生さえ禁じるような生活をしていたという。
以上、八丈島の流刑人について。驚くのは番組中でも何度も出てきたが、犯罪者である流民を仲間として許容する島の人々の度量である。結局はそれが故に宇喜多秀家も近藤富蔵も晩年は島で安らかな生活(厳しい部分もあったはずではあるが)を送り、結果として長生きをしているというのが印象的である。
富蔵などは殺人の凶悪犯なんだが、恐らく激烈な性格故にカッとして見境なく凶行に及んでしまったんだろう(無礼討ちと言いながら、富蔵が処罰されていると言うことは非は富蔵側にあったということだろう)。ただ島での苦しい暮らしの中で彼はその罪と正面から向き合ったのだろうと思われる。最終的には人徳者として墓に顕彰碑まで建てられたというのだから見事な更正である。犯罪者の更生というのが社会問題化している今日、島のどのような環境が更正に作用したのかは考えてみる余地はあるかもしれない。
忙しい方のための今回の要点
・江戸時代の流刑の地として知られる八丈島に最初に流刑になったのは宇喜多秀家である。
・秀家は関ヶ原の合戦で西軍の主将であったが、前田家や島津家から助命嘆願があったことで、家康も死罪にはしにくく、結果として八丈島への流刑となった。
・秀家は飢饉の八丈島で食糧にも事欠く苦しい生活を送ったが、正室の実家である前田家の支援もあって何とか生き延び、島に中央の文化を伝えたという。
・流刑から20年が過ぎた時、前田家から幕府に赦免を願い出て戻らないかとの提案があったが、結局はそれを断って島で暮らして84才という長寿で没する。
・明治になって流罪が廃止され、最後の流刑者は近藤富蔵である。彼は旗本の長男であったが、もめ事で隣人を殺害したことで23才で島に流罪となった。
・飢饉の島で彼は食べ物に窮するが、様々な仕事をこなしながら生き延び、さらに島の風土や生活などを「八丈実記」として詳細な記録に残した。
・1880年、赦免されて本土に戻り各地を旅して回るが、結局は島に再び戻り、山の観音堂の堂守として八丈島の記録を残しながら83才の生涯を全うした。死後には人徳者として顕彰碑が建つぐらいの人物になっていた。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・私は流刑って、犯罪者が江戸からさえいなくなったら良いっていうとんでも刑罰だなと思っていたが(もっと露骨な江戸所払いというのもある)、過酷な島ではその流刑者さえも受け入れる社会があったってのは驚いたな。もっとも今回登場したのは多分一番美しい例であって、もっと凄惨な例も本当はあると思うが。
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