アジア人初の国際司法裁判所所長となった安達峰一郎
夏のこの時期になるとあるこの番組の「昭和の選択」シリーズです。なお番組名が変わっちまうことで、レコーダーが別番組として認識して毎週予約がおかしなことになってしまうので、個人的にはこれに迷惑してるんですが、まあそれはどうでも良いことです(笑)。今回の主人公はアジア人として初めて国際司法裁判所の所長になったという安達峰一郎。重要人物ではあるが一般の知名度は皆無という、例によってこの番組の磯田氏の趣味らしい地味な選択です。
安達峰一郎は山形生まれで裕福ではない名主の家に生まれた。教育には力を入れている家だったらしいが、学校教員になることを嫌って上京して立身出世を目指す。司法省法学校に入学してから帝国大学に進学し、語学の天才と言われたという。この頃、ノルマントン号沈没事故で日本人を見捨てた船長が治外法権の関係で極めて軽い処罰にすんだことで、日本国内では不平等条約改正への要求が高まる。安達は法学生時代に、後進国日本が世界で互角に渡り合うための武器になると判断して国際法を専攻する。
外交官として活躍、国際司法の場に参加する
1892年に外務省に入省した安達は、日露戦争での講和条約の際に随員として参加、第一次大戦後には駐ベルギー大使としてヨーロッパの惨状を目の当たりにする。これが安達に戦争を防ぐためにはどうするかを考えさせることになる。
1919年、パリ講和会議で安達は日本代表の一員となる。そしてここで国際連盟が発足、日本は常任理事国となる。安達はここで各国との連携の場に身を置くことになる。ここでパリ不戦条約が締結され、侵略戦争は違法ということになる。安達は世界平和を実現させると誓う。
国際連盟で活躍した安達は多くのヨーロッパの国で勲章をもらっている。ドイツからポーランドに割譲された地域でのドイツ系住民の処遇に関する問題について、安達はドイツとポーランドの双方の主張を調べて、論理的かつ中立的に調整したことで双方の国から安達への感謝が伝わっている。1922年、国際紛争解決のための常設機関である国際司法裁判所がオランダのハーグに設立される。安達はその設立に関与する。当時の問題は強制管轄権であり、裁判所の調整能力を働かせるにはこれは不可欠であったが、安達に日本政府からの反対が伝えられていた。日本政府は国際裁判所を信用していなかった。安達はこの政府の決定に従わざるを得なかったが、これは安達にとってはハシゴを外されたようなもので、彼は「小生は国家の犠牲になった」と語っているという。1930年、安達は国際司法裁判所の裁判官選挙に出馬、トップ当選して後に所長に就任する。
日本の満州事変に翻弄され、戦争防止の願いも空しくこの世を去る
しかし安達が所長になった10ヶ月後、オランダの新聞に鎧姿の武者を上下姿の侍が素手で取り押さえる風刺画が掲載される。これは満州事変で暴走する日本軍部を安達が留めることを期待してのものだった。日本は中国からの攻撃に対する自衛を訴えていたが、欧米は日本による侵略と考えており、国際司法裁判所への提訴が検討されていた。これに対して安達の選択、この件を裁判所で審議するか、日本に不利な結果になることを避けるために裁判所での真偽を諦めて日中二国間での直接交渉での解決を目指すか。
これについて今回は、それぞれの場合どういう結果が予測されたかということを検討している。まず裁判所で扱った場合だが、間違いなく日本に不利な裁定が下っただろうと推定されている。その結果、国益の保護に固執している日本は国際社会からの離脱につながったろうとしている。では二国間交渉だが、こちらもアメリカがかなり強く関与をしようとしているので、日本としては余程の譲歩をしないと結局はまとまらないだろうとしている。
要はどっちになって八方塞がりである。そして安達は首相に就任した斎藤実に私信として「法律問題として法廷で判決をすると日本に不利なものになるだろう」と伝えている。要は安達は二国間交渉を選んだことになる。しかしやはり日中間でこれがまとまるはずもなく、満州国建国などに進んでリットン調査団の結果を受けて国際連盟は日本の撤退を可決、日本は国際連盟から脱退、国際社会から離脱することになる。国際社会からの日本の孤立を聞いた安達は不眠症から心臓病を発症して1934年12月28日に65才でこの世を去る。オランダでは盛大な国葬が成されて安達の死を悼んだという。その後、日本は大戦へと突入していくことになる。
結局は戦争を無くすことを目指しながら、日本の暴走にどうしようもなく無力感を噛みしめたであろう安達の物語。残念ながら世の中は理知的な人間だけでなく、舞い上がった馬鹿が暴走することがあるので、なかなか戦争はなくならないという残酷な現実でもある。まあ一時的にはそのような歴史の後退があっても、それをくり返しながら人類全体は進化していくと信じたいところであるが、どうも先の戦争の体験者がいなくなるにつれ、日本でも「再び戦争を」と言いだしている馬鹿が増えているのが懸念事項ではある。
忙しい方のための今回の要点
・国際法を学んだ安達峰一郎は、外務省に入省して外交官として活躍する。
・第一次大戦後、ベルギー駐在となった安達は戦争の惨状を目の当たりにして、戦争を防ぐための方法を考えるようになる。
・大戦後、国際連盟が設立され、パリ不戦条約で侵略戦争は国際法違反とされる。
・安達は国際連盟で活躍、ドイツからポーランドへの割譲地でのドイツ系住民の問題では安達は論理的で中立的な裁定を行って、両国から信頼を得る。そして国際司法裁判所の設立にも貢献する。
・1930年、安達は国際司法裁判所裁判官へ立候補してトップ当選、後にアジア人初の所長に就任する。
・しかしその頃、日本では満州事変が勃発、欧米からの批判が高まる。安達にはこの件を裁判所で裁定するかどうかの判断が迫られることになる。
・安達は裁判所では日本に不利な裁定が下る可能性があると忠告、しかし二国間交渉での解決も出来ず、その後は満州国の設立などの軍部の独走の中、日本は国際連盟から脱退、安達も体調を崩して1934年にこの世を去る。
・オランダでは安達の死を悼んで盛大な国葬が執り行われる。しかし日本はあの不毛な大戦に突入することとなる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・制度的に歯止めのない軍部に舞い上がった国民、これを抑止するのは一外交官には無理だったろうな。あの時代、正しいことを言ったら特高に逮捕されて拷問死か、舞い上がった市民に袋叩きにされるかって状況だったから。
・つまりそういう状況まで行ってしまったらどうしようもない。だからそうなるキッカケを血道に最初からつぶしていくしかないんだが。
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