評論家としても活動した与謝野晶子
詩人として知られる与謝野晶子であるが、今回はその彼女の評論家として側面に光を当てる。彼女が執筆した評論誌は15冊にも及ぶが、その中で女性問題については大論争になったという。
与謝野晶子は明治34年に出版した歌集「みだれ髪」で一躍世間の脚光を浴びる。そこで彼女が示した女性像はみずから積極的に動く女性であったという。彼女は歌人の与謝野鉄幹と恋愛関係になり、その関係を描いたのがこの歌集であったという。
しかし日露戦争の際に従軍した弟を気遣った「君死にたもうことなかれ」の歌が戦争を否定していると猛批判を受ける。折しも世の中が言論統制を強めつつある時代で、言論界でも自粛の方向が強くなっていた頃だという。これに対して晶子は堂々と反論する。これが彼女の評論家としての始まりだったという。晶子は言論統制を強める内務大臣や文部大臣に対し、堂々と文学を知らないと批判する。この晶子の態度に執筆の依頼も増えてくる。なおこの時に晶子はスペイン風邪の流行について密の解消を命じない政府を批判、さらに軍事教育などに対する批判なども行っている。こうして彼女は評論家としてのポジションを確立していく。
渡欧したことで女性に対する姿勢が定まる
夫の鉄幹との間に12人の子供を儲けた晶子は子育てに追われており、経済事情は火の車だったという。またロマン主義的な明星も日露戦争後に売り上げは激減しており、明治41年には廃刊、鉄幹は無職同然となり晶子が生活を支える状況だった。その最中、鉄幹は立ち直りを図るために詩の本場であるヨーロッパ行きを計画する。晶子はそのための費用を百首屏風の販売や新聞や雑誌への寄稿、寄付を募るなどで4000円(現在の価値で4000万円)の費用を捻出する。そして明治22年に鉄幹をヨーロッパに送り出すと、自らも半年後にヨーロッパに渡る。
晶子はそこで社会的に活動している女性を見たことで評論家としての姿勢が定まる。日本の静的な女性ではなく、ヨーロッパの動的な女性達こと女性が目指すべきものと彼女は考えたのだという。しかしこのような女性は当時の日本では求められていなかった。未だに日本で求められているのは良妻賢母だった。これに反発して平塚らいてうが立ち上がり「青鞜」を創刊、そこで自らの姿勢をたかだかに歌う。これに賛同した晶子も詩を寄稿する。しかし実は2人の考えには微妙にズレがあった。らいてうは女性を束縛から解放して自由にするために徹底した女性の権利拡張を訴えていたが、晶子は女性も自ら仕事と収入を得ての男女平等を重視していた。晶子は男性に経済的に依存する女性を強く批判した。
考えの微妙な違いで平塚らいてうと大論争に
2人のこの違いは後に大論争につながる。らいてうは「女性は母性中心に生きるべき」というエレン・ケイの主張に強く賛同して、子供は女性だけが産めるものとして女性の権利拡張を訴える。しかし晶子は女性には多様な可能性があるのに、母親になる子とだけを考える必要がないと批判する。これに対してらいてうが強烈に反発する。そしてこれがキッカケに2人の猛烈な論争が始まる。らいてうは出産は国家的事業でもあり、それを国家が保護するのは当然と主張。これに触発されてか、その他の多くの人物が論争に参戦し始める。こうして母性保護論争と呼ばれる大論争が盛上がる。
しかしそこにはそもそも晶子が唱えていた男女平等からは外れてしまっていた。この論争に対して晶子がどう対応するかが今回の選択、徹底的に論争を続けるか、それとも論争から降りるかである。
これに対して番組ゲストの意見は「かみ合っていなくて不毛なのでさっさと降りてしまうべき」というもの。これについては私も全く同意見。そして晶子も「私とらいてう氏が目指しているところは基本的に違いはない」という趣旨の長文を掲載してこれで議論から降りてしまう。
その後、らいてうは市川房枝らと新婦人協会を結成して婦人参政権運動に尽力、晶子も女性参政権に熱意は持っていたがこの運動には加わらず、自らは女性教育のための新しい学校を創設した。彼女が創設した文化学院は女性でも数学や科学、文学などを男子と同等に学べる場とした。そして創設2年後には男子生徒も受け入れて、日本初の男女共学の学校となった。男女平等を具体的な形として示そうとしたのである。男女平等は戦後の新憲法で明文化されるが、晶子はそれを見ることなく昭和17年にこの世を去る。
ということで、2024年のジェンダーギャップ指数で日本は146カ国中118位と晶子の目指した男女平等は未だに実現していないということでこの番組は終了するのだが、確かにいくら立派な憲法を制定しても、その理念を実現しようとしないのがこの国の国民の悪いところでもある。
晶子とらいてうの議論がかみ合わなかったのは、2人が見ていた社会が違いすぎるというところにあったようである。らいてうはまさに女工哀史などで搾取される女性労働者を見ており、そこから解放するには女性の権利拡張しかないと考えていたが、晶子が見ていたのはヨーロッパのバリバリと活躍する女性だったのだから、議論の土台が違う。晶子に対して「あなたのような特別な才能を持って活躍出来る女性はごく一部の例外」と批判した社会活動家の女性がいたそうだが、それは確かに的を射ている。晶子の掲げた方向性は理想としては分かるが、当時の女性の実情から見たら浮き世離れしていると感じられたのだろう。
まあこの手の「世界観が違いすぎるが故に議論が全くかみ合わない」というのはよくあることで、SNSの世界などではこのために議論にさえなっていない不毛な論争も多々見かける。もっとも最近はこれよりもっと低次元で、あまりに知性がないためにそもそも相手の言っていることが理解出来ないというレベルの不毛な罵倒も多いようだが。まあ何にせよ、そういうすれ違いは不毛であり、そんなところで「論破」とかいきがるのが最もアホである。
忙しい方のための今回の要点
・詩人としてみだれ髪で世間の脚光を浴びた与謝野晶子だが、彼女は評論家としても活動していた。
・キッカケは日露戦争で言論統制を強める政府に対して、一切物怖じせずに合理的に堂々と自説を主張したことから社会的脚光を浴びたのだという。
・鉄幹の渡欧を追って渡欧した彼女は、ヨーロッパで活躍する女性達を見て、日本の女性もこうあるべきであると考えるようになる。
・その頃、平塚らいてうが女性の権利拡大のために立ち上がり「青鞜」を創刊、晶子もそれに共感して詩を寄稿する。
・しかし2人の女性問題に対する認識は女性の権利拡大を訴えるらいてうに対し、晶子は男女平等を目指すなど微妙な違いがあった。結果としてそれがきっかけとなって多数を巻き込んでの大論争が勃発する。
・議論のすれ違いに不毛であることを感じた晶子は、論争から降りて、自らは男女平等を目指した学校である文化学院を創設。そこは日本初の男女共学校となる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・結局は不毛な論争に意義を見いだせずに行動で自らの考えを実践することにしたということのようで。まあそれが正解ですね。平塚らいてうの方はまた自らの考えに従って行動をしてますし。
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