東日本大震災で地元住民を救うために立ち上がった人々
2011年3月12日、三陸地区を襲った巨大津波で道路は寸断され、各地に孤立集落が発生した。その中で住民を救うために自ら立ち上がった地域の土建業者達の話。
釜石市鵜住居。この近くの土建業者である小笠原清二は住民の依頼で、子供たちのための野球場をボランティアで建設した。そして仕事を引き継いだ息子の保もこの地区が大好きだった。しかし球場が出来た33年後、その平和な日常が奪われる。マグニチュード9.0の巨大地震で沿岸部は津波に襲われる。内陸で仕事をしていた小笠原保は妻と娘の安否を気にしながら車を走らせていた。海から2キロ地点まで戻ってきたところで道路が水没しているのを発見、保は山に入って5日前に開通したばかりの三陸道を目指す。高架の三陸道は被害がなく、多くの住民が避難してきていた。そこでようやく妻と娘が無事であるという情報を得る。
ホッとして町を見下ろすと、見慣れた町の変わり果ていた惨状が目に飛び込んだ。津波は日向地区の入口まで迫っていた。この地域では6600人の住民の1割が死亡し、7割の住宅が被災した。そして三方を山に囲まれた日向地区でも人々は孤立してていた。食糧や衣料品も届かず住民達は命の危機に瀕していた。会社の事務所も重機も流されてしまった保だが、故郷を救えるのは自分しかないと立ち上がる。
仲間と協力して道を通すべく作業を開始する
保は内陸に戻って仲間を探し、消防団や職員らと連絡をとる。そこで古くからの知り合いである建設業者の藤原利一と藤原善生に出会う。保は孤立集落を救援するために自分達で道を切り開くことを訴える。そして翌日の早朝から保達は県道35号の瓦礫を取り除きながら海沿いの国道45号を目指すべく動き始める。そこから日方地区までの2.5キロを切り拓くつもりだった。しかしその3人の前に想像を絶する瓦礫の山が立ちふさがる。しかもグチャグチャになった瓦礫の中には生存者がいる可能性もあった。保達は重機で一かきする度にエンジンを切って声を上げて生存者の確認を行った。慎重な作業が求められることから、1時間で100メートルほどしか進めない。
一方、日向地区に取り残された住民は、翌朝になって自分達の危機的状況を理解した。電気も水道も寸断され、食糧の備蓄は各家庭にあるのみ。集会所では地区の女性達が山から水を汲み出して木の枝で火をおこして炊き出しを始めていた。中心となっていたのは小笠原津多子。町内会長の夫は仙台に行っていて不在、自分が地域を守る必要があると考えていた。
3月12日の午前8時。保達の作業は県道を塞ぐ家に進路を阻まれていた。県道をこれ以上進むのは無理と判断した保達は、三陸縦貫道に車が上るための新たな道路を突貫工事で作ることを考える。これを作るのに必要な土の量は400トン。藤原善生がダンプで何往復もし、保がそれを固めて坂道にしていく。3月13日の早朝に即席のインターチェンジが出来上がる。
食糧が底をついて危機に瀕する集落、駆けつける保と立ち上がる住民達
しかしその夜、日向地区では危機に瀕していた。避難民にも炊き出しをしていたために米の消費が予想よりも多く(300人を想定していたのに、実際は1000人以上いたという)、既に米が底をつきかけていた。おにぎり一個をおじやにして全員で食べている家庭も増えてきたという。空腹と寒さで体調を悪化させたり、薬がなくて持病を悪化させる人も出て来た。一刻の猶予もない状態だった。
3月14日、保はようやく三陸道から点検用の側道を降りてようやく日方地区に到着した。集会場までは後400メートルだが、その行く手には大量の瓦礫が立ちふさがっていた。なかなか前に進めずに焦る保は瓦礫の中に背中を向けている遺体を見つける。これが保の心を挫きそうになる。そんな時に消防団の二本松誠が「何をやってる、早く来い」と声をかける。消防団員や住民達は遺体の収容に奔走していた。やりたくもないはずの作業を必死になってやっている人達の姿を目にした保は胸を打たれる。遺体があるところには目印の旗が立ててあったので、保はそれを避けて道を切り開いていく。
その頃、集会所では家族のための米を提供する人までいて必死に食いつないでいた。そして3月16日、集会所まで後100メートルまで迫った保の前に流された住宅が立ちふさがる。その保に日向の少年野球の監督だった古川政喜が、グランドを通るように呼びかける。グランドはネットが瓦礫を塞いでいた。住民が先回りして瓦礫の中を遺体がないことを確認。保は少しずつ進んでいく。そして震災から6日後、ついに集会場までの道がつながる。この道を通って支援物資が届けられた。
住民達による必死の救助作業の実態。大規模震災の時は最初の数日が生存のために重要であることを住民自身が良く分かっていたから(阪神大震災の時、まさにそれが生死を分けたことは有名)、彼らは自ら動いたということである。またこの時は政府もできる限りの救援をしようと必死になっていた。
それに対してこの前の能登の震災では、税金を自分たちの小遣いと考えている政府は、国民の為になんか使いたくないと早々と見捨てることを決定。しかも人が入り込んで原発の事故実態が知れることを恐れたのか、ボランティアなどにまで現地入りを禁止する始末。果ては自称愛国者達はネット上でヘリを飛ばさない理由について様々な屁理屈をこねくり回して擁護するという地獄の有様だった。これが自称「実行力を有する唯一の政党」である自民党の実態であった。災害地の規模は東日本よりも狭いにも関わらず、対応力は東日本の時よりも落ちていたという始末である。
忙しい方のための今回の要点
・東日本大震災では海沿いの国道45号が瓦礫で塞がれて寸断、多くの孤立集落が発生、釜石市鵜住居の日向地区も住民達が孤立していた。
・この地で土建業を営んでいた小笠原保は、住民達を直ちに救援するために仲間の土建業者の藤原利一と藤原善生と共に日向地区への道路を確保するべく奔走する。
・一方の日向地区では町内会長の妻である小笠原津多子が中心となって、集会場での炊き出しを行っていた。しかし備蓄は各家庭のものしかなく、多くの避難民も抱えた状況で直ちに物資欠乏の危機に瀕していた。
・生存者の確認をしながら重機で道を作っていた保らだが、行く手を流された家などに塞がれ、県道を進むことを断念、被害のなかった能登縦貫道へのバイパスを作る決断をする。
・能登縦貫道を経由してようやく日向地区に到着した保。しかしそこから集会所までの最後の400メートルが難関。その保に地元の消防団や住民達が瓦礫の中の遺体確認で協力する。
・そして震災発生から6日後、ようやく集会所までの道が確保され、支援物資が届けられる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まさに一刻を争う勝負です。しかしこういうのを見ると、今の政府は「だからまず公助よりも先に自助・共助」とか言い出すのがオチなんだよな。そして結局は公助はせずに切り捨てると。
・今の政府だと、保が道路を通すために重機を出そうとしたら、「その重機は直ちに万博建設に回せ」って言い出しかねんからな・・・。
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