加藤清正の城、近代戦を戦う
加藤清正が築いた名城が熊本城である。扇の勾配で知られる堅固な石垣などに守られた堅城は、結局は戦国の世ではその真価を発揮することなく終わった。しかしこの城が日本の命運に影響する近代戦の舞台となったのである。それが西南戦争であった。
近代化を目指す日本では、徴兵令によって軍が編成され、日本をいくつかの管区に分けて九州の軍の本営である熊本鎮台が熊本城に置かれていた。さらに秩禄処分によって士族は先祖代々の家禄を廃止されることになる。廃刀令で武器を奪われ、その上に収入を断たれた士族は不満を感じて各地で反乱を起こす。
1876年10月24日、熊本でも不平士族の反乱が発生。170名の不平士族の集団・敬神党が熊本で挙兵する神風連の乱である。彼らは熊本鎮台司令長官や熊本県令を襲撃して殺害、熊本城内に侵入して鎮台を占拠してしまう。翌日、体勢を立て直した鎮台軍の反撃で首謀者や参加者が自刃して事件は終了する。しかしこの際、政府側は死者60人、負傷者200人の被害を出す。この事件の直後に熊本鎮台司令長官に任命されたのが土佐出身の谷干城である。
西南戦争で圧倒的優位の西郷軍に包囲される
そして谷の赴任の3ヶ月後の1877年2月5日、西南戦争が勃発する。谷が放った偵察によって、1万3000の西郷軍が熊本城を目指して北上していることが判明する。これに対して守備側は3300。しかも徴兵で集めた平民で戦闘経験は皆無であった。戊辰戦争を戦い抜いた西郷軍とは練度がまるで異なっていた。実際に神風連の乱では抜刀して襲いかかる士族達を前に、鎮台軍の兵は逃げ回るばかりだったという。さらに参謀長の樺山資紀や連隊長の川上操六など指揮官の多くが薩摩出身で、いつ寝返るか分からないという不安もあった。これでは城を出て迎え撃つことは不可能と谷は籠城を決意する。
しかし籠城の準備中の2月19日に大天守から出火して天守と本丸御殿が炎上する事件が発生、辛うじて火薬の搬出には成功するが、兵糧米30日分が焼失する。その2日後に西郷軍が到着、熊本城の周囲を包囲する。
熊本城は西郷軍の総攻撃を受けるが、東、北、南では熊本城の堅固な守りが近代兵器を駆使して攻めかかる西郷軍を跳ね返す。しかし西には段山と呼ばれる高台があり、ここからは熊本城内に水平に射撃することが可能だった。西郷軍はこの段山に猛攻をかけて奪取、ここから城内へ正確な射撃を行ってくる。これに城兵は苦しめられることになる。
しかし鎮台軍は堡籃という蔓で編んだ筒に土を詰め込んだ胸壁を作り、これを遮蔽物として銃撃戦を行った。さらに鎮台軍は元込のスナイドル銃を多数装備していたのに対し、西郷軍は弾薬の確保の関係から先込のエンフィールド銃が主力であり、装備の点での優位性を保っていた。
激戦を耐え抜くが食糧が不足し始める
開戦3日目の2月24日、政府の熊本城救援軍が迫ってきたことから、西郷軍は作戦を長期包囲戦に変更する。政府の救援軍2000と西郷軍の主力が田原坂で激戦を繰り広げる。西郷軍は主力を田原坂に回したことで3300の兵で熊本城を包囲して兵糧攻めを実施する。包囲が弱まったことを見て取った谷は段山奪回を試みるが上手く行かず、西郷軍の野戦砲が城内に撃ち込まれる状況になる。熊本城は新政府軍の象徴でもあり、ここが落ちると西郷軍の士気は一気に上がるし、新政府の権威は失墜する。そうなると各地の不平士族達が西郷軍に続々と呼応する可能性もあり、新政府としては熊本城の落城だけは絶対に避ける必要があった。段山の攻防は激戦となり、3月13日、多くの犠牲を出しつつも城兵は段山の奪還に成功する。城兵の士気は上がり、実戦によって練度も上がってきた。
3月20日、政府軍はついに田原坂を突破する。しかし西郷軍はその南に防御陣を敷き、城攻めの兵の一部をそちらに回す。そして包囲が手薄になった分は水攻めで補うことにする。また南方からも政府軍は熊本城に向かって進軍しつつあった。しかし電信が破壊された城内にはそのような周囲の戦況は不明であった。さらに食糧が残りわずかになっていて、後15日もすれば完全に尽きる状況だった。
果敢に討って出て戦況を打開する
ここで谷の選択である。自ら指揮を取って出撃して局面打開を図るか、籠城を続けて援軍を待つか。これについては番組ゲストの意見は分かれた。磯田氏は城兵が討って出るなら援軍が見えた時であって、乱戦の中で城内に侵入される危険を冒すのは危険というものだが、これは私も同意見。
谷の選択だが、4月7日に谷は自ら出撃することを提案する。しかしこれに対して参謀の樺山が主将は城から離れるべきではないと主張、谷は城に留まることになる。そして4月8日、城兵は陽動作戦として東に討って出て、西郷軍が混乱する隙に別働隊が包囲を突破して北上してきた政府軍と合流する。また陽動部隊も敗走した西郷軍の拠点で米720俵を奪取、当面の食糧の危機も脱する。
そして4月14日、北上してきた政府軍が熊本城に到着する。城兵は700人以上の死傷者を出しながら52日間の攻防戦を凌ぎきったのである。西郷軍は鹿児島に敗走、西郷隆盛の自刃で西南戦争は終了する。谷はその後、政治家に転身し、国民の利益を重視する立場を貫き、足尾鉱毒事件では被害者の救済に奔走した。また日露戦争では開戦に断固反対し、大陸への進出に異義を唱え続け、軍備の拡張に反対し続けたという。
以上、結局は防衛側の谷干城の指揮官としての能力が光るのであるが、長期の包囲戦で城兵よりも西郷軍の方が緩んでしまっていたことが、城兵が出撃した時のドタバタに覗える。なお西国隆盛は「新政府軍に負けたのでなく、清正公に負けた」と言ったと残っているが、戦国期に清正が設計した城が幕末の戦いでも通用したということになる。もっとも近代戦と言っても銃撃と砲撃による戦いで、清正が熊本城を築いた頃の戦国の戦いは既に銃撃と砲撃の時代になっていたから、武器自体の性能は向上しても戦術の基本は大きくは変わっていなかったということもあるだろう。流石の清正公の堅城も、ミサイルと航空兵器の現代戦では使い物にならない。
谷の指揮官としての凄さは、いつ崩れるか分からない軍を最後までまとめきったこと。最初の天守の火災はやはり西郷軍に味方する者が軍内にいたのではと思われるのだが、結局は最後までいわゆる反乱は起こっていない。自ら陣頭に立って戦う谷には部下を惹きつけるカリスマがあったのだろうと思われる。
またそこまでバリバリの軍人として活躍した谷が、政治家に転身すると軍拡に反対したというのも興味深い。結局は彼は自己の利益でなく国を守るために戦っており、国の利益を考えた時に大陸に深入りするのは自滅につながると冷静に判断出来ていたのだろう。日露戦争の戦勝で国民全体が浮かれてしまっていた時に、それを主張出来るのは勇気もあることだとつくづく思う。
忙しい方のための今回の要点
・西南戦争の際、政府軍の拠点の鎮台だった熊本城は、1万3000の西郷軍に包囲される。
・それに対して守備兵は徴兵で集めた平民兵3300と劣勢、この軍を率いて指揮官の谷干城は籠城戦で熊本城を死守することを決める。
・もし熊本鎮台が陥落するようなことがあれば、全国の不平士族が西郷軍に呼応する可能性もあり、新政府の将来を賭けた戦いとなる。
・西郷軍は総攻撃をかけるが、加藤清正が築いた堅城に北、東、南の方向からは城に取り付くことが出来ず、西の段山を占領することで城内に銃撃を浴びせかける。
・兵器では優位のある守備軍は、堡籃で敵弾を防ぎながら十字砲火を浴びせて城を死守する。
・政府の熊本城救援軍が北から迫り、田原坂で西郷軍と激戦を繰り広げ、西郷軍はこれに対応するために熊本城に対しては持久戦に切り替える。
・しばらく戦線は膠着状態となるが、やがて城内の食糧が乏しくなってくる。
・谷はここで討って出ることを決断、西郷軍の混乱に乗して離脱した隊が南方からの救援軍との合流を果たす。
・やがて南方から救援軍が到着。城兵は700人の死傷者を出しながらも52日間の防衛戦に勝利を収める。
・谷は戦後に政治家に転じ、国民の利益を優先する姿勢を貫き、世間が日露戦争勝利に浮かれる中でも大陸進出のための軍拡に反対し続けた。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・谷干城に関しては、いろいろと目先が利くという印象を受けます。優れた戦術眼があり、それは戊辰戦争の中で磨かれたものなんでしょう。
・この時に熊本城が落ちていたら、日本の近代化が10年は遅れたという話がありますが、確かに徴兵した平民兵なんて使い物にならないから、やはり士族でないとということになった可能性はあり。
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