
今回のポイント
・幕末の熊本で裕福でない武士の次男坊として生まれた横井小楠は、学問において優秀な成績を収め、29歳で藩校の塾長に抜擢される。
・しかし小楠には酒癖の悪さという致命的な欠点があり、それによって退学者が続出、責任を問われた小楠は塾長解任という処分を受ける。
・1839年、半ば厄介払いで江戸に留学を命じられた小楠は、水戸藩の藤田東湖に出会って「机上の学問にとどまらず、その考えを実際の政治改革につなげる」姿勢に感銘を受ける。
・東湖に惚れ込んで水戸への留学を藩に願い出た小楠だが、酒で起こしたトラブルによって熊本に呼び戻される羽目になり、70日間の蟄居を命じられる。
・貧乏を極める生活の中で小楠は自分の学問の在り方を見直し、堯舜禹の理想の政治の精神を学んでそれを実際の政治に活かすことこそが己の学問であるという結論にたどり着く。
・1834年、私塾小楠堂を開いた小楠の元に、その開明的な思想を学ぶために藩の外からも多くの者が訪れて教えを乞うようになる。
・ペリー来航を期に開国か攘夷かで国論が割れる中、小楠は信義を重んじる国を選んで開国をしてそこから学ぶという考えを主張しており、広く人々の意見を集める公儀公論による国家の運営という政治思想に至る。
・福井藩主の松平春嶽は小楠の思想に触れ、小楠の招聘を熊本藩に申し出る。小楠は素行に問題があるからと熊本藩は反対するが、春嶽の熱烈な要請により熊本藩が折れ、小楠は福井で藩校改革に着手することになる。
・小楠はここで身分の差を越えての公儀公論を実現しようとするが、春嶽が井伊直弼との政争に敗北して隠居謹慎処分を受けることになる。
・この時、藩内における代替わり人事の構想に春嶽が口を出したことで、福井の家老達と江戸の春嶽の間で対立が生じる。この時に両者の間を仲介したのが小楠だった。
・1862年、再び幕政の中枢に復帰した春嶽の元で、小楠は「国是七条草案」を提出、ここで参勤交代の廃止や優秀な人材の登用、政治を広く公論で進めることを主張する。
・しかしこの頃、朝廷は長州藩の暗躍などで攘夷一色染まっており、1863年に将軍家茂や春嶽が上洛して朝廷と交渉するものの説得できず、5月10日を攘夷実行日として約束することになる。なおこの時小楠は、その前に起こした酒での失態で春嶽に同行することがかなわなかった。
・5月10日、長州が単独で攘夷実行、対外戦争勃発の危機が高まる。この時に小楠は藩を上げて兵を率いて上洛し、在留の外国人を京に呼んで、将軍、関白、諸大名を列席させた会議を実施して議論によって問題を解決するという大胆な策を主張する。
・福井藩はその方向で行動を決意するが、6月になって将軍家茂が江戸に帰ってしまったことで事態が急変する。
・ここで小楠の選択の時が来る。将軍抜きでも会議の開催を試みるか、それとも計画を延期するか。
・小楠は身を捨て、家を捨て、藩を捨ててでも計画を実行するべきと春嶽を説得。しかし今日で事情を調査していた春嶽の側近が、京では攘夷派が跋扈していて上洛は時期尚早だと報告したことで春嶽は計画を断念、藩を滅ぼすとして小楠を批判して武氏身分を剥奪、小楠は隠棲することになる。
・隠棲した小楠の元に坂本龍馬ら多くの客人が訪れる。小楠は幕府が倒れるのをそこで見守るしかなかった。
・明治新政府の五箇条の御誓文には「広く会議を興し、万機公論に決すべき」と記されたが、これは小楠を教えを受けた由利公正によるものだった。政府は小楠を大久保や木戸と並ぶ参議として政治の中枢に迎え入れる。
・しかし明治2年に小楠は攘夷派残党の襲撃を受けて殺害され、小楠が明治新政府内で活躍する機会は永久に奪われる。
歴史の波にうずもれてしまった小楠
前回の西郷従道に続いて、一般人から見れば「誰、それ?」という渋いチョイスだが、これは磯田氏の考えが反映している模様。番組中での磯田氏のかなりテンションが上がった熱弁でも分かるように、彼は小楠の思想をかなり高く評価しているようである。特に読書とは単に知識を仕入れるものでなく、それを元に自分がどう考えるかが重要という趣旨のことを言っていたことにかなり共感していたようであるが、それはまさに私も強く同意するところ。単なる知識でパンパンの頭でっかちでなく、そこから自分で考えて自分なりの思想体系を作ることこそが真なる教養であるというのは私の考えでもある。
小楠は思想的には幕末に大きな影響を与えたようであるが、その割には歴史には残っていないのは、一番肝心な時期に福井藩から追い出されて傍観せざるを得なかったことと、明治になってさあこれからの時にあっさりとテロで殺されたことだろう。あの幕末から明治にかけての天誅テロって、ホントに国にとっては百害あって一利なしだった。考えの浅い阿呆が、大抵は優秀な人物の言うことを理解できずに一方的に敵認定して殺害してたんだから、当然ながら有為な人材が激減することになり、おかげで明治新政府は人材不足でにっちもさっちも行かなくなった。アホが世にはびこると社会全体がおかしくなるということの端的な表れでもある。だから事実上この天誅テロを容認してむしろ利用していた長州を、私は評価しないわけでもあり、薩長中心の明治新政府を問題ありと言い続けている理由の一つでもある。
封建時代下における小楠の限界
小楠は保守的な熊本藩では認められず、松平春嶽という開明的な主君に出会うことで開花したのであるが、同時にその主君の限界に巻き込まれたというところもある。いくら開明的な主君とはいえ、所詮春嶽は幕府の体制を何とか死守しようという側であり、思索を進めるうちに幕藩体制を飛び越えてしまっていた小楠はいずれは春嶽から切られるのも必然であったという気もする。基本を儒学に置いていたと考えられる小楠としては、そこで一気に討幕側に加担するという気もなかったんだろう。この辺りは儒学的な「聖王による徳治を理想とする」という思想の限界のようでもある。もっとも小楠はワシントンに共感していたようだから、ここから一気に共和政の発想まで飛んでも良かった気もするが、そうなればそうなったで、それは明治新政府の思惑をも飛び越えるから、やはりあのご時世だといずれは消されたか。
番組の議論の中でサラッと触れていたこと
それはともかくとして、磯田氏とゲストの作家の高橋源一郎氏や歴史学者の三谷博氏との議論の中で、終盤に「日本の庶民が文字を読めるようになって、ラジオから流れてくるプロパガンダに弱くなった」と学力が上がったことによって逆に世論が誘導されて危うい国粋主義が台頭する危険性を三谷氏が指摘していたのが印象的。番組的には1920年代ぐらいの日本の社会状況がおかしくなってくる時代を指している形にしていたが、磯田氏や高橋氏の頭の中には、現代の政府自体がその世論を煽っているご時世のことが頭にあったのは間違いなさそうに感じた。ただしそれを口にしたらメディア統制を強めている政府から圧力がくる可能性があるから、匂わせで誤魔化したなという印象。こういうのも行間読みである。歴史を学ぶことによって、それを現代の状況と引き合わせて、将来に予想される危険を避けるというのは一番大事なことである。
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