決して無能な傀儡ではなかった義昭
信長の傀儡であり実権がないお飾りの将軍だったとか、自身の実力も考えずに信長に刃向かって京から追い出された惨めな将軍とか、今ひとつイメージが悪くてドラマなんかでもいかにもそういうタイプの役者が配役されることの多いのが足利義昭。しかし義昭は実はそんなに無能でも馬鹿でもなかったというのが今回の主旨の模様。実際は結構信長を追い込んだし、その力量は侮れないものがあったのだという。
信長と協力関係を築いて幕府の再建に取り組むが
兄の義輝が三好氏によって殺害されたことで、興福寺の僧だった義昭も命を狙われて逃亡することになる。この時に兄の意志を継いで幕府再興を決意し、30才で還俗する。しかし軍事力を有していなかった義昭は全国の大名に協力を要請するが、それに応える大名はおらず、その中で唯一義昭の要請に応じたのが信長だった。信長は義昭を奉じて上洛、1568年に義昭は室町幕府第15代将軍に就任する。
義昭の室町幕府が表向きの政務を、軍事を信長が担当する分業体制が確立、義昭は信長を御父と呼んで感謝を表し、足利家の五三桐の紋の使用を信長に許している。将軍御所が完成すると信長は義昭に5条の要請を出し、これが従来には義昭が傀儡にされた証拠と解釈されていた。しかし実際は信長が幕府の軍事と外交を受け持つという2人の協調関係を示すものであるという。この時点では信長も幕府を盛り立ていることが、天下静謐への近道と考えていたのではという。実際に信長が浅井・朝倉軍に手痛い敗北をした時に、義昭は身体を張って信長を助けるために和睦の斡旋をしたという。
しかし信長との協力関係に対する疑問が義昭の周りから湧き出し始める。特に信長の比叡山焼き討ちの後は、義昭の側近間でこのまま信長と組むべきかに対しての大激論が起こった。1572年、武田信玄が信長に対して兵を挙げ、浅井・浅倉、本願寺などの反信長勢力が挙兵、さらに家康が三方ヶ原で武田信玄に破れて武田の軍勢が信長の領国に迫る。信長は京周辺の軍勢を撤兵して本国に向かい、京の義昭はいつ攻撃されてもおかしくない状況に陥るが、この時も義昭は信玄に使者を送って説得を試みているという。しかし信玄は逆に信長の比叡山焼き討ちを非難し、信長誅殺の下知を求めてくる。これによって義昭の側近の中から信長と袂を分かつべきとの意見が持ち上がってくる。そして1573年、義昭は思い悩んだ末に信長に対して兵を挙げる。義昭は3000余りの軍勢を率いて槙島城に籠城するが、織田の大軍の前にあえなく降伏する。そして義昭は京の都から追放される。
反信長包囲網を結成して善戦するが
しかし実は信長はこの件で義昭を見切ったわけでなく、追放から4ヶ月後の1573年11月に義昭の元に使者を送って和睦の交渉を行ったという。義昭は自らの安全を確保するために信長からの人質を要求したが、これに対して使者の羽柴秀吉が激怒して交渉が決裂したのだという。これ以降、両者の関係修復はならなくなった。
交渉決裂の3年後、毛利家を頼った義昭は鞆の浦に滞在していた。義昭はここを室町幕府再興の拠点と定め、その元には信長に領地を奪われた守護などが集まっていたという。義昭は海運の拠点であった鞆の浦の地の利を活かして各地に幕府の文書である御内書を各地の国衆などに送り、着々と反信長の兵力を集めていった。義昭は謙信に周辺との和睦を勧めて幕府に協力するように要請する。謙信はこれで信長との同盟を破棄、また武田勝頼も毛利家との同盟を進めたという。こうして義昭は上杉、武田、毛利、本願寺の信長包囲網を形成する。1576年、籠城する本願寺の救援に毛利が動き、木津川の河口で織田水軍をうち破る。さらに1577年には信長と共に本願寺を攻撃していた松永久秀が謀反、1577年には謙信が手取川で信長軍を完膚なきまでに討ち果たす。
一方、毛利領には秀吉が攻め込んでくる。1581年に鳥取城を攻略、鞆の浦の義昭に肉薄してくる。ここで毛利輝元も出陣して両者の決戦が迫る。しかしその矢先に本能寺の変が勃発、信長は突如としてこの世を去り、秀吉軍も去って行く。将軍の権威を使用した義昭の外交力には目を見張るものがあるという。
本能寺の変後の選択が命運を分ける
本能寺の変は義昭にも転機となる。羽柴秀吉から上洛を促す誘いが来る。柴田勝家と対立していた秀吉は義昭の権威を利用しようとしたのだろう。一方の柴田勝家も義昭に接近を図ってくる。ここで義昭は選択を迫られる。秀吉と敵対するか秀吉に付くか。
これに対して番組ゲストの意見は割れたが、両者を和睦させてプレゼンスを示すという意見がなかなかに斬新だった。確かにそれこそが義昭の得意そうな技ではある。で、義昭の選択だが、賤ヶ岳で両者が激突する時に毛利に秀吉の背後を突くように促したという。義昭は秀吉と敵対することを選んだのだった。しかし毛利は動かず(毛利輝元はここ一番で優柔不断なところがある)、その内に秀吉が勝家を討ち滅ぼしてしまう。こうして義昭の室町幕府再興の最後の望みは絶たれる。
その4年後、義昭は出陣の途中で鞆の浦を訪れた秀吉と対面して親しく酒を酌み交わしている。秀吉が関白に就任した秀吉は島津に苦戦していたが、この時に義昭が島津に対して和睦勧告を行ったのだという。これで島津との和睦が成立している。そして秀吉との対面の後に1587年に義昭は15年ぶりに京に戻って、秀吉の家臣となって槙島の近郊に1万石の領地を与えられる。文禄の役では名護屋城まで従軍しているが、この時に病を患って1597年に61才でこの世を去ったという。その6年後に家康が足利家を名乗って幕府を設立する。
以上、義昭は無能でもないし結構頑張ってましたよって話なんだが、殊更に新事実が出たというわけでもなく、単に解釈を変えたというレベルだったな。信長に傀儡にされた義昭がぶち切れたのではなく、側近が反信長で湧き上がってしまったので仕方なくという解釈になっていた模様。もっとも以前から反信長包囲網などは「あの無能の義昭が絵を描いたにしては信長が危機に陥りすぎ」というのは言われており、あれを実現した義昭の政治力は実は侮れない(半分以上は将軍チートだろうけど)という話は昔からないわけではなかった。
なお武田が反信長で立ち上がった時、義昭は思いとどまるように武田に使者を送ったと言っていたんだが、それって何か証拠でも見つかったのかな? 従来は武田に対して「早いところ信長をやってしまって」って使者を送ったことになっていたはずだが。
賤ヶ岳の合戦が呆気なく決着ついたことで幕府復興の望みは完全になくなって、それ以降の義昭は悟りきったような老後に入っちまったような感じになっていたが、「麒麟がくる」とかで描かれていた義昭は、鞆の浦に行った時点でもう悟りきったご隠居みたいな状態だったが、実際は流石にあの頃はまだまだもっと生臭かったはず。やっぱり秀吉が絶対権力確立しちまった時点で諦めざるをえなくなったんだろう。毛利にしても島津にしても秀吉に下っちまったんだから、もう秀吉を抑える勢力なんて存在しないんで、そうなれば室町幕府を再び盛り立てようなんて者はどこにもいない。こりゃ流石の義昭もどうしようもないから、秀吉に頭下げるしかなかったろう。
忙しい方のための今回の要点
・足利義昭は信長の傀儡の無能というイメージが持たれているが、決してそうではなかったという。
・そもそもは義昭を奉じて信長が上京した時点では両者の協力関係は良好で、政治向きは義昭の室町幕府が、外交と軍事を信長が担当する形での分業が確立していた。
・今までは信長から義昭への5か条の要請は信長が義昭を傀儡にした証拠とされていたが、実はこれは信長が義昭を支えていく態度を示したものだという。
・しかし義昭の側近の間から信長と協力することに対する懸念が広がっていき、比叡山焼き討ち後は信長と別れるべきの激論が交わされることになる。
・そして武田が挙兵したことで信長と決別するべきとの意見が強くなり、義昭もついに挙兵する。
・しかし義昭の軍はすぐに鎮圧され、義昭は京を追われて毛利を頼って鞆の浦に滞在することになる。
・鞆の浦で義昭は将軍として各地に御内書を送って味方を増やしていく、そして上杉、武田、本願寺、毛利などの反信長包囲網を結成する。
・本能寺の変が発生後、義昭の元には秀吉と勝家から共に味方に取り込もうとする動きが起こる。義昭は秀吉と対立することを選び、毛利に出兵を求めるが毛利は動かず、結局は賤ヶ岳で秀吉が勝利を収めて秀吉の天下が定まってしまう。
・その後の義昭は秀吉の九州攻めで島津に講和を促し、秀吉の配下として生きていく道を選ぶ。そして文禄の役で名護屋城まで従軍したところで病を患って61才でこの世を去る。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ義昭は無能ではなかったのかもしれないが、では有能かと言えばそれも疑問がないではない。
・生まれながらにしての将軍でなく、僧として外に出ていた経験ってのも大きいのかもしれない。だから世間の事情についてもいくらかは分かっているという。
・もっとも義昭は外に出ていたが故に側近に恵まれなかったところもありそう。特に参謀に当たる人材が皆無ってのはツラい。
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