教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/8 NHK 歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 立花宗茂」

戦国最強立花宗茂

 戦国ご当地大名シリーズの第5弾となりますが、主人公は私が以前の最上義光の回で予測したとおり、立花宗茂だったようです。

tv.ksagi.work

 戦国最強大名は誰かいう質問に対し、以前は三英傑以外では上杉謙信や武田信玄、さらには伊達政宗などが上がっておりましたが、近年になって急激に評価が上がっている九州の大名であります。実際にその生涯での戦績は無敗だとか。

立花宗茂

 

 

立花宗茂の強さの秘密

 番組では宗茂のゆかりの柳川の立花家史料館を訪問しているが、そこに収蔵されている宗茂の鎧は当時に例がないほどの巨大なもので、そこから推測される宗茂の体格は身長180センチで、しかもかなりガッシリした体格だったという。さらには兜の重さも4.15キロと当時の通常の武将の倍であり、かなりの身体能力に恵まれていたという。宗茂はこの鉄砲の弾も弾く兜を身につけ、最前線で戦うことで兵を鼓舞していたと考えられる。

 また宗茂の居城である立花城だが、ここは高山に70~80もの曲輪を擁する極めて堅固な城であり、これも宗茂の強さの一因であるとする。ちなみに標高367メートルを誇る山頂からは辺りを一望することが出来る。

立花城山頂からの風景(2014年撮影)

 

 

武勇だけでなく知略も持ち合わせていた

 なお宗茂はこの城の堅固さを逆に利用して8倍の敵を打ち破ったこともあるという。秋月氏が8000の兵で攻めてきた時、1000の兵力しか宗茂は当然籠城するだろうという敵の思い込みの裏をかいて、打って出て奇襲攻撃をかけたことで秋月軍を撃破したという。豪胆でなおかつ知略もあったのだという。また宗茂は部下に金箔を貼った兜を部下に着けさせており、軍勢を目立たせることで状況を把握して迅速な指揮を下したという。

 宗茂の知略は島津による九州攻略の際にも発揮された。九州制覇を目指して5万の島津軍が立花城に迫ってきた時、1700の軍勢しかいない宗茂は、降伏をすると見せかけて時間を稼ぎ、大友氏の援軍としてやってくる秀吉を待ち、撤退する島津軍を追撃して3つの城を奪い返したという。秀吉もこの宗茂の活躍を高く評価し、柳川10万石の大名に取り立てた。なお宗茂の知略は義父である立花道雪に鍛えられたものではという。

 

 

南蛮貿易を利用した最新兵器も所有

 さらに宗茂の強さの1つには鉄砲隊の威力があったという。宗茂の鉄砲隊は弾と火薬を一体にして封じた早合を使用することで、通常の鉄砲隊の倍のスピードで銃撃することが出来たという。実際にこれを実験しているのがこの番組らしいところではある。宗茂はこの鉄砲力で戦いを有利に進行したのだが、宗茂がこの早合を得ることが出来たのは南蛮貿易によるものだと推測されている。

 宗茂は関ヶ原の戦いで大津城攻めに参加しているが、この戦いでは早合を用いた鉄砲連射で京極軍を撃破しているが、さらにこの戦いで南蛮貿易で入手したと考えられる大砲も投入しているとのこと。当時、攻城側が大砲を使うという例はなかったという。なおこのような最新兵器の投入は主君であった大友宗麟から学んだとも考えられとのこと。

 

 

関ヶ原での敗北からの奇跡の復活劇

 しかし関ヶ原の合戦では西軍は敗北、宗茂も改易されて牢人となってしまう。しかしここから再び柳川の大名として復活したのが宗茂のすごいところである。牢人となった宗茂は茶の湯や連歌、書道、香道、蹴鞠などの様々な文化面の教養をつけ、茶の湯については細川忠興が息子に対して「茶の湯のことは立花殿に聞け」と言っているほどのレベルになっていた(そもそも細川忠興は千利休の弟子であり茶の湯を極めている)という。そしてこの教養で将軍になった直後の秀忠の旗本に取り立てられ、大坂の陣でも秀忠にアドバイスするなど活躍、秀忠の側近である御噺衆として取り立てられて厚遇されることになった。そして柳川に領地をもらうことになったのだとか。

 

 

 以上、戦国最強立花宗茂について。今までは謙信や信玄に比べると知名度の低さがあったのであるが、昨今の戦国ブーム(主に戦国無双や戦国BASARAなどのゲームの影響が大きい)によって一気に人気が浮上した感がある。同様にこの辺りで注目度が上がった大名としては、先に登場した長宗我部元親などもいるが、彼の場合はとにかく晩年が良くないのに対し、宗茂はラストの大逆転も含めて非常にドラマチックであるのでその点でもストーリー性が抜群である。

 なお宗茂が大津城の攻略に参加していて関ヶ原にいなかったことが西軍の敗北につながったなどとも言われている。宗茂1人で果たしてそこまで戦況をひっくり返せたかは不明であるが、そんな可能性も感じさせるほどに宗茂は強かったということだろう。なお関ヶ原のIFの1つには「島津義弘がもっと手勢を持っていたら」というのもある。実際に関ヶ原での義弘の軍勢はたったの1500で、そのせいで全く活躍出来ず「5000の兵がいたら負けることはなかったのに」と悔しがっていたという。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・立花宗茂は生涯無敗の戦国最強武将とも言われる。
・宗茂は身長180センチの巨漢で、銃弾をはね飛ばす強靱な兜を身につけて最前線で兵を鼓舞して戦ったという。
・さらに彼の立花城は極めて堅固な要塞であり、これも彼の強さの一因であった。
・また籠城するだろうと考えた敵の意表をついての奇襲で8倍の兵力差をひっくり返すなどの知略もあった。
・秀吉の九州攻めの時の活躍で宗茂は柳川10万石の大名に出世する。
・宗茂は南蛮貿易で早合を用いての効率的な銃の運用や、大砲の入手なども行っており、これが彼の強さの一因でもあった。この強さは大津城攻めで発揮されている。
・しかし関ヶ原の合戦では西軍は敗北、宗茂も改易されて牢人となる。その後の宗茂は茶の湯や連歌などの教養を身につける。
・その教養から新将軍である秀忠の旗本として取り立てられ、大坂の陣では作戦アドバイスなどで活躍、それらの活躍で最終的に柳川の大名に復帰する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・宗茂の復帰は家康自身が宗茂の実力を認めて、あわよくば配下にしたいという考えを持っていたということが大きいだろう。関ヶ原では敵対したものの、恐らく家康は最後まで宗茂を取り込むことを考えていたということだろうな。
・家光が特に宗茂に好意を持っていたというが、家光は同時に真田信之も優遇している(秀忠は信之のことは徹底して嫌ったが)。祖父や父に対するコンプレックスもあった家光としては、この両者は父を超えた人物としての尊敬もあったんだろうな。
・なお私は2014年に立花城を訪問してますが、山頂からの見晴らしは良かったが、そこに至る道のりはかなり厳しかったのを覚えています。あれから20年経った今の体力だと山頂まで行くのは無理かも。

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