政宗とは違う東北の雄・最上義光
ご当地大名シリーズの第4弾ということで今回は東北の雄、最上義光である。なお「よしみつ」と読みそうになるが正しくは「よしあき」である。東北と言えば伊達政宗の印象が強すぎて地味系武将というイメージもあるが、実際はかなりの実力者であった。
最上義光と言えば山形城の騎馬像が無性に格好いいのであるが、山形は鋳物の技術が高く、それは最上義光が職人を集めたことから始まるという。なお義光は通常の刀の2倍の重さがあるという指揮棒(指揮棒と言っても、実質的には棍棒のような鈍器である)を振り回して戦ったとか。かなりの巨漢な上に剛力だったようである。
山形を豊かにするために上杉と対立、秀吉の配下となる
山形を根拠地にする義光が、自国を豊かにするために力を入れたのは最上川による水運。船の運航を妨げる浅瀬3ヶ所を開削し、領内の水運を盛んにして経済力を増したのだという。ただその義光がどうしても手にしたかったのは最上川の河口に当たる庄内地区。この地区を手にすることが出来れば外海に接続出来、広く各地と交易することが可能となって飛躍的に経済力が増す。だが庄内地区は上杉の勢力圏内であり義光は手を出せなかった。
しかし1587年にチャンスが到来する。上杉の支配に苦しむ庄内からの助けを求める知らせが入ったのだった。これで大義名分を得た義光は庄内に攻め込んで陣頭に立って指揮棒を振り回して奮戦、出羽山形の大部分を掌握することに成功する。しかしこの時代は既に全国の大半を秀吉が支配しており、義光も生き残りのために秀吉に降ることになる。山形城からは金箔瓦が見つかっており、これは秀吉との密接な関わりを現している。
秀吉の仕打ちに豊臣家を見限って家康に付くが
だが秀吉の配下になったことで義光に新たな苦難も訪れる。まず秀吉の配下になってから、同じく秀吉の配下であった上杉に再び庄内を奪われてしまう。義光は秀吉にその横暴を訴えるが、秀吉は庄内は上杉に与えることを決める。さらに決定的だったのが、愛娘の駒姫が関白である秀次との縁談がまとまったのだが、その秀次が謀反の疑いをかけられて切腹、激怒した秀吉は秀次の妻子にまで処罰を広げ、結果として京に輿入れに入った直後でまだ秀次と面会さえしていなかった駒姫までが処刑されることになってしまう。義光は駒姫助命のために奔走するが叶わず、駒姫は15才にして命を落とすことになる。さらにその14日後、義光の妻の大崎御前が急死する。一説によれば娘の死を嘆いての自害とも言われている。これで義光の豊臣家に対する恨みは決定的なものとなる。実際に伏見地震の時にも多くの秀吉配下が秀吉の元にはせ参じたのだが、京にいた義昭は秀吉の元に向かわず、家康の元に参じたという。
秀吉は伏見地震の2年後にこの世を去るが、義光が豊臣家に意趣返しするチャンスが訪れる。家康が上杉討伐に動くことになり、義光は東北の諸勢力を率いて背後から挟撃するように依頼されたのである。仇敵上杉討伐に意気揚々と乗り出す義光だが、ここで予期せぬ事態が起こる。大坂で石田三成が挙兵、家康はそれに対応するために反転、さらには東北の諸軍もそれを受けて引き返し、義光は単独で上杉軍と相対することになってしまったのである。
鉄壁の要塞の長谷堂城で奮戦、その働きが家康に認められる
義光は24万石、これに対して上杉は120万石、軍勢の規模が違いすぎてまともに戦っては勝ち目がなかった。庄内から南からの二方向から進行してくる上杉軍に対して、義光は大胆な策に打って出る。ほとんどの城から軍勢を引き揚げて長谷堂城に集中させて防衛する策に出る。堅固な山城である長谷堂城で南方からの直江兼続率いる上杉軍を迎え撃つことにしたのだった。
長谷堂城は鉄壁の要塞となっていた。山城には珍しい巨大な堀を持つ上に、左上がりの坂の右手に11段の帯曲輪を構え、ここから矢弾を雨嵐と浴びせかける仕組みを作ってあった。これは当時としては最新の作りだったという。この堅固な要塞に流石の直江兼続も攻めあぐねる。
大要塞である長谷堂城は、私は2013年に訪問しています。
その間に関ヶ原の決着がつく。ただその報は直ちには伝わってこない。結局義光は2週間に渡って上杉軍の攻撃を退け続ける。そして関ヶ原の結果が伝わって上杉軍が撤退に入ると義光はこれを追討する。ここでも義光は陣頭に立って戦い、銃弾を兜に浴びたもののひるまずに攻め続けたらしい(番組ではこの下りでいささか悪ふざけがあるのだが)。そして庄内を上杉から取り戻す。
義光の活躍は家康にも高く評価され(家康も上杉が背後から攻撃をかけてきたら危険だった)、24万石から57万石にまで加増される。なお義光はここからさらに領内の整備に努めて、最終的には石高は実質100万石に達したとされる。義光はこれを気前よく家臣達に配分したという。ただしそれが祟って、力を持った家臣達が孫の代にお家騒動を起こし、結果としては最上家は取りつぶしとなってしまう。そのせいで義光に対する記録が現在にはあまり伝わっておらず、それが今日の最上義光の印象の薄さにつながっているとか。
以上、伊達政宗の影に隠れた東北の雄、最上義光について。なお山形城の義光の像は私も見ており、確かに躍動感のあるやけに格好の良い像だと感心したことがある。なお戦の陣頭に立つイメージのこの義光の像に対して、近くの最上義光展示館には平服の義光の像もあり、これが歌に秀でた文化人でもある義光の姿を伝えている。
なお番組では最上義光のイメージはと聞くと、「独眼竜政宗」に登場した原田芳雄のイメージが未だに濃いというようなことを言っていたが、これは実は私も同じ。実際に私が初めて最上義光という地方武将の名を聞いたのはこれが初めてである。だからどうしても義光と言えば猛将や知将というよりも、謀将のイメージが濃い。まあ伊達家とは何かといろいろあったのも事実ではあるし。
ちなみに番組では義光にプロレスラーの棚橋弘至を起用して再現映像を制作している。なんちゅう配役をするんだと呆れたが、実際に見ているとマッチョで吠えまくっているだけの印象の義光だったが、予想していたほどの棒ではなく(どうも棚橋氏が芝居がかって吠えまくるのに慣れていそう)意外にはまっていたのは笑った。まあもっと複雑な芝居を求めたら破綻したろうが(笑)。
忙しい方のための今回の要点
・山形を拠点とした最上義光は、自ら巨大な指揮棒を振り回して陣頭で戦う猛将であったが、最上川水運を整備して領内の経済力を高める優れた統治者でもあった。
・長年最上川河口の庄内を支配する上杉と対立していたが、1587年に庄内の支配に成功、その後に秀吉の元に降る。
・秀吉には重用されたが、庄内地区を上杉に奪還されたこと(秀吉はこれを是とした)と秀次の元に嫁いだ娘の駒姫が処刑されたことなどから豊臣家に恨みを抱くことになる。
・上杉討伐に動いた家康の意を受けて、東北諸勢力を率いて上杉を挟撃することになるが、三成の挙兵で家康が反転、東北の軍勢も引き揚げたことで単独で上杉の大軍と相対する羽目になってしまう。
・庄内と南方の二方向から攻め込む上杉軍に対し、義光はほとんどの城から兵を引き揚げて堅固な山城である長谷堂城で上杉軍を迎え撃つ大胆な策に出る。
・要塞化していた長谷堂城攻略に上杉軍も手こずり、その間に関ヶ原の戦いの決着がつく。撤退する上杉軍に対し、義光は兜に銃弾を受けながらも激しい追撃戦を実施する。
・この功で義光は24万石から57万石に加増、その後に領内整備に努めて実質100万石にまで経済を強化する。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・今回のご当地大名シリーズは、一般的な知名度今ひとつだが実は影響力の大きかった武将にスポット当てようという趣旨のようだが、そういう点で見ると今回の最上義光が一番ピッタリかもしれない。
・なお好評につき第5弾も進行中とのことだが、正直なところあのシルエットだけだと誰だか良く分からん。人気などを考えるとありそうなのは立花宗茂辺りではというのが私の推測。
・などと予測して少し調べてみたら、刀剣ワールドなるHPに登場する立花宗茂のイラストが、最後に出てきたシルエットのまんまで、こりゃ確定やん・・・。
・なお2022年に私は東北遠征の一環で山形城も訪問しており、その時の記事はここの姉妹ブログの「徒然草枕」に掲載しているので、興味のある方は一読されたい。
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