教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/25 NHK 歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 長宗我部の戦国」

ご当地大名シリーズ第3弾は長宗我部

 ご当地大名シリーズの第3弾は、戦国BASARAとの影響で近年になって人気も高い「土佐の出来人」こと長宗我部元親である。一時は四国を制するところまで勢力を拡張したが、長宗我部家自体はその後の中央の権力者の思惑で翻弄されていくことになる。

土佐の出来人・長宗我部元親

 元親が家を継いだ時には土佐は8人の有力豪族が争っている状況であり、長宗我部家はその中でももっとも石高の低い家だった。しかし元親は中央の権力と巧みな外交を行うことでのし上がっていく。その1つが小牧長久手の戦いで、信雄や家康から出陣の要請を受けていたという。戦力的には劣勢だった家康としては、秀吉の背後で元親に出陣してもらうことで、秀吉包囲網を形成しようという考えだったと推測出来る。実際に長久手の戦いの時、元親の存在を警戒した秀吉は大阪に戦力の一部を残さざるをえなかったということもあったという。元親は信雄や家康側での参戦を表明しているという。

 元親としては家康側に参戦することは四国制覇の点でもメリットがあったという。元親は金子元宅と同盟を結んで伊予の制覇を目指していたが、伊予に進出することで伊予の河野氏と縁戚関係を結んでいた毛利元就と睨み合うことになったのだという。そこで小牧長久手の戦いに参戦表明することで、秀吉に対しての不満のあった毛利との戦いを避けることが考えられたのだという。そして毛利が行動を停止した間に河野氏との間の交渉を進め、河野氏と和睦をすることで四国を制覇することができたのだという。

 なお近年は元親の存在が本能寺の変に関係しているという説も浮上している。信長と元親の間を取り持っていた光秀が、信長の四国政策の変更によって追い詰められたという説である。

 

 

秀吉に元親を重用させた土佐の名産品

 そして元親の最大の危機は秀吉による四国攻めであった。秀吉の10万の兵に対抗することが叶わず、結局は土佐一国に押し込められて講和することになってしまう。ただし秀吉は元親を重視していた節が見られるとのことで、元親が秀吉に一目置かれた理由は土佐の木材にあるという。

 当時は近畿周辺には既に良質の木材はほぼなくなってしまっており、そこに元親から送られる白髪山の檜の巨木は秀吉の様々な普請において必須の物であったという。特に土佐の白髪山の檜は年輪の幅が狭いことから強度が高くて優良な材であったという。それは土壌に秘密があり、マグネシウム濃度が高いために植物が育つのには厳しい条件であるので、こういう環境でも生育出来る檜にとっては有利だったという。また檜にとっても厳しい条件なのでゆっくり育つことで年輪が締まったのだという。元親は分国法でも木に関する条文を定めており森林の保護に力を入れて管理していたという。

 

 

元親の跡を継いだ盛親の奮闘

 元親は秀吉の死の翌年に61才で亡くなり、その後は四男の盛親が継ぐことになる。しかしこの盛親が関ヶ原の戦いで西軍に参加したことで領地を奪われて牢人になってしまう。しかし盛親は大坂の陣に参加、藤堂軍と八尾で衝突して大打撃を与えた。この時に盛親は田んぼの中の細い道を一列に進軍する藤堂軍を、川沿いのスペースで待ち構えて先頭から集中攻撃で撃破したという。さらにの川岸の堤防を攻撃に利用するなど地形も活用したという。

長宗我部盛親

 しかし一介の牢人に過ぎず、京都で寺子屋の教師をしていたという盛親がいかにして5000もの兵を集められたかだが、多くの牢人衆が長宗我部というネームバリューに惹かれて集まったのだという。しかし盛親は最終的には敗れて41才で生涯を終えることになる。

 

 

 以上、長宗我部元親・・・というか長宗我部家についての話なんだが・・・情報少なっ!!てのが本音。結局は元親の話は実質的には土佐の木材の件だけで、後半は盛親の話になったが、結局はネームバリューで兵は集まったが敗れて死んだってだけ。

 実際に盛親が関ヶ原らで全く良いところがなかったのは、毛利が日和ったのに巻き込まれたというのもあるが、そもそも元親の晩年がグダグダだったというのの影響をもろに受けている。秀吉と上手くやっていた元親であるが、秀吉の九州征伐に従軍して、その時に将来を非常に期待していた嫡男の信親が戦死してしまったことで失意のあまりに完全にダメになってしまい、結局は「信親に面影が似ている」という理由で盛親を後継にごり押しした結果、家中が混乱してしまって、盛親はそのまま家中を収めることもできない状態で関ヶ原に行かざるをえなかったという状況があったという。

 とにかく「土佐の出来人」も最晩年はグダグダだったんだが(これがなければ長宗我部元親の世間評価はさらに高くなっていると思う)、あまりにひどい話なせいかそれをスッパリとカットしているので、余計に内容が薄くなった感が強い。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・四国を制覇した長宗我部元親は、中央の権力の動向をうまく活用した。
・小牧長久手の戦いでは家康側に参戦することで、秀吉に対して不満を感じていた毛利の行動を抑え、それによって四国を制覇出来た。
・しかし元親も秀吉の四国攻めで降伏し、土佐一国に押し込められることになる。それでも元親は秀吉に重用されたという。
・その鍵は土佐の木材。元親は土佐の優秀な木材を秀吉の求めに応じて提供することで、既に近畿一円では優秀な木材が確保出来なくなっていた秀吉に重用されたのだという。
・秀吉の死の翌年に元親もこの世を去り、四男の盛親が後を継ぐが、関ヶ原の戦いで西軍に付いたことで領地を没収されてしまう。
・それでも大坂の陣では5000人の牢人衆を集めて、藤堂軍に大損害を与えると善戦している。しかし最終的には敗れて41才でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・長宗我部元親については「晩年のゴタゴタさえなかったら・・・」ってのがまさに歴史ファンの考えるところなんですよね。元親にしてみたら、自分は秀吉に降らざるをえなかったが、信親なら再び長宗我部家を盛り立ててくれるだろうと相当に期待していたみたいなんですよね。実際に信親もなかなかの器量だったらしいし。
・戸次川の戦いでの信親の死がなければ、元親の早々の失意の中での死もなく、関ヶ原の合戦を元親存命で迎える可能性があるんですよね。すると恐らく元親が土佐を守って信親が兵を率いて参戦でしょう。東軍に付くか西軍に付くかは不明ですが、どちらにしてもかなり活躍した可能性あり。そうなったら関ヶ原の展開も変わっていたのではなんて考えてしまいますね。

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