北前船の発展に尽くした男
加賀市橋立、かつてこの地域は日本一の富豪村とも言われた。この地に富をもたらしたのは北前船。最盛期には30人もの船主が軒を並べた。彼らは上方で仕入れた日用品を売りさばきながら北を目指して、蝦夷地で仕入れた物産を上方で販売して莫大な利益を上げたのだった。その北前船に改革を成し遂げたのが工楽松右衛門である。
船頭として頭角を現し、新型の帆を開発して北前船に革命をもたらす
1743年、松右衛門は播磨の高砂で漁師の子として生まれる。幼少期より潮を読んで工夫をすることに長けており、船に乗ると常に大漁だったという。10代半ばで彼は船乗りとしての出世を目指して兵庫津・今の神戸に出る。大型船が入港出来る兵庫津はハブ港として繁栄していた。松右衛門は豪胆で合理主義的であり、船の運航に長けていたという。松右衛門は30代半ばにして、西回り航路の大型船を乗り回す船頭として活躍するようになる。そんな松江右衛門に兵庫一の豪商である北風貞幹が目をつけ、彼に傘下の船具商を引き合わせて船に使う新しい帆を工夫するように依頼する。当時の和船は帆の強度との不足が問題で、強風時は港で風待ちをする必要があり、それが時間の浪費につながっていた。
松右衛門はこれに対して松右衛門帆と呼ばれる新たな帆布を考案する。これは中央部に対して端で織り方を変えて強度を調整することで、柔軟性と強度を兼ね備えたものである。この帆の効果は絶大で蝦夷地大坂二往復が可能となったという。松右衛門はこの帆の製造法を囲い込まずに請われると誰にでも教えたという(今日で言うオープンソースだな)。松右衛門帆は全国に広がる(外洋の航海が可能となったので、目的地に直行出来るので劇的に航海日程が短縮出来る)。
蝦夷で台頭してきた高田屋嘉兵衛と協力する
松右衛門は独立開業して着実に利益を上げていく。そこに台頭してきた新興船頭が高田屋嘉兵衛だった。彼は頭角を現すと新天地を目指して蝦夷地進出、そして箱館に拠点を置く。大型船で交易を行って利益を上げていった。そんな嘉兵衛の元に幕府から蝦夷地開発への協力を求められる。ロシアの動きが活発化して来ていた時代、幕府は蝦夷地を直轄地にする必要性を感じていた。特に択捉島の支配が重要であった。潮の流れが速くて難所であった択捉島への航行を嘉兵衛は請け負う。そして国後島に渡ると潮の流れを詳細に調査、そして3つの潮が合流するポイントを避けて、それらが合流する前の北を渡って択捉に到達する航路を開拓する。この航路開拓が嘉兵衛に莫大な富をもたらす。特にニシンの絞りかすが肥料として飛ぶように売れた。こうして嘉兵衛は北の豪商となる。
1800年、この嘉兵衛と松右衛門が協力することになる。松右衛門の元を訪れた嘉兵衛が幕府の御用として蝦夷地の港湾整備への協力を要請する。実は松右衛門は既に港湾整備用の船も開発していた。ここで松右衛門の選択である。この要請を受けるか受けないかである。
これに対してのゲストの見解は引き受けるの一択。かなりの巨大プロジェクトだけにリスクはあるものの、この人なら絶対に引き受けるだろうと私も考える(残念ながら私だったらそこまでの度胸はない)。そしてやっぱり松右衛門はこれを引き受ける。松右衛門は箱館に松右衛門島と呼ばれる乾ドックを整備し、さらに択捉島でも港湾整備に着手する。この功績で松右衛門は幕府から「工夫を楽しむ」という意味で「工楽」の姓を賜る。
海運の発展に尽くした生涯
蝦夷地築港で名を上げて兵庫に戻った松右衛門には、各地から港湾整備の依頼が殺到するが、その中に故郷である高砂港のものがあった。河川からの土砂の堆積で港として機能が損なわれていたのだという。松右衛門はこの工事を私財を投じて行う。また松右衛門が嘉兵衛に対して箱館のドックを売り渡した書簡が見つかっている。松右衛門はその資金を港湾整備に投じたと考えられる。また嘉兵衛に譲られた箱館のドックは、箱館丸の建造に利用されるなど歴史に大きな影響を与える。そして松右衛門は生涯を海運の発展に尽くして1812年に高砂で70才で病に没する。その墓碑は帆布をかたどったものであるという。松右衛門や嘉兵衛が築いた北前船は明治以降もそ社会の発展に大きく寄与することになる。
以上、日本の海運の発展に尽くした工楽松右衛門について。松右衛門は莫大な利益も上げていたようであるが、そもそも利益が目的でなくて海運に尽くすということを一番に掲げているのが立派なところ。この辺りは、竹中平蔵なんかのように己の利益だけを最優先にして、そのために政府に取り入って社会に巨大な害悪を垂れ流すというような寄生虫共に爪の垢を煎じて飲ませたいところ。松右衛門の商売は明らかに自身の目指すところのための資金として行っているように見える。嘉兵衛の方は松右衛門よりも商売人寄りであるが、それでも竹中平蔵と違って己の利益のために社会に害をなして良いとは考えていないのは明確である。
番組ゲストが「社会に貢献する企業をもっとみんなで支えて」という趣旨のことを語っていたが、これはまさにその通り。企業は利益を上げるものであるが、その利益を何に使うかがもっとも重要である。昔は従業員や社会に利益を積極的に還元することを使命にしている企業も多かったが、最近は守銭奴経営者ばかりで、従業員への賃金を惜しんで利益を上げると、その利益を海外の投資家と自分の懐にだけ還元しているような輩が増えた。結局こういう日本企業のあり方が日本社会を貧しくしているのは事実。しかもその挙げ句に、もっと利益を上げたいと政府に賄賂を渡して労働者の労働環境をさらに悪化させられるように要望したりする始末。こういう企業は逆に市場から排除する必要があろう。そのためには消費者も賢明な行動が求められるのである。
忙しい方のための今回の要点
・高砂に漁師として生まれた松右衛門は、10代半ばで船乗りとして兵庫津で頭角を現し、30代半ばで西回り航路の大型船を乗り回すようになる。
・その松右衛門に兵庫一の豪商である北風貞幹が、当時外洋航行のためには強度に問題のあった和船の帆の改良を依頼する。
・松右衛門は帆の中央と端で織り方を変えて強度を変えた松右衛門帆を考案、このノウハウを広く公開した。この技術で北前船の運行効率が劇的に改善することになる。
・松右衛門が独立して着実に利益を上げていた頃、高田屋嘉兵衛が兵庫で台頭してくる。彼は蝦夷地に目をつけると箱館に拠点を置き、巨大船による交易で莫大な利益を上げていく。
・さらに嘉兵衛は幕府の依頼で択捉への航路を開拓、蝦夷地東部の交易で北の豪商として名を上げる。
・その嘉兵衛が幕府の御用として、松右衛門に蝦夷地の港湾の整備を依頼する。既に港湾整備用の船の開発を行っていた松右衛門は、その依頼を受けで函館港に乾ドックを整備、さらに択捉島にも港湾を整備する。
・この工事で名をなした松右衛門の元には、各地の港湾整備の依頼が殺到する。さらに松右衛門は私財を投じて故郷の高砂港の整備を行う。
・海運の発展に尽くした松右衛門は1812年に70才でこの世を去る。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・この北前船の頃に日本海岸は交易で発展したんですよね。それが流通の変化で日本海岸は裏日本と呼ばれて没落する羽目になる。
・今でも朝鮮や中国との交易を盛んにすれば日本海岸が発展する可能性はあるんですが、そのためには北朝鮮が自由化して対立解消するのが不可欠なんですよね。しかし実際は国内でもそれをよろしく思わない奴が中枢にいる。
・連中は軍拡の口実のために北朝鮮にはあくまで仮想敵国でいてもらう必要があるんですよね。だから統一教会を通して資金を流して、実質的に北朝鮮を支えていたりする。
・なお番組中で日本一の富豪村と言われた加賀市橋立も、今ではすっかり寂れて当時の町並みが重伝建として保存されています。ちなみに私は2013年に現地を訪問しており、その時のレポートは以下の福井遠征の中にあります。
前回の英雄たちの選択