生糸生産を国産化して、金銀流出を防げ!
江戸時代初期に輸入品だったものが、幕末には主要な輸出品へと成長したのが生糸である。生糸は明治以降も日本の外貨獲得の主力となった。生糸産業をゼロから世界一までに押し上げた人々の奮闘を描く。
江戸時代、生糸は中国からの輸入品で、高価な白糸は京などの織物産業を支えていた。しかし生糸の輸入によって日本から莫大な金銀が海外に流出、経済破綻の危険までが起こっていた。これの解決を託されたのが新井白石だった。
白石は長崎貿易での金銀の流出量について調査したところ、幕府が始まって100年の間に金の1/4、銀の3/4が流出したという恐るべき数字が出る。後100年の内に日本の金銀は枯渇するだろうという試算だった。ここで白石の選択は生糸の輸入を止めるか、それとも止めずに代わりの産物を作るかであった。結局白石は貿易量を半分に制限することにする。そして生糸の国産化を図る。100年後には生糸の生産がこの数十年で4倍になったと記されている。各地で桑の生産も始まる。
品質向上のための取り組み
兵庫の但馬の養父は養蚕がさかんな地域だが、18世紀半ばには質の低い生糸しか作れない貧しい地域だった。これを変えたのが上垣守国である。彼は上質な生糸の繭を求めて旅に出る。そして良質な繭の産地を訪ねて奥州にたどり着く。そして奥州の蚕紙を持ち帰って但馬での生産を始める。これで但馬の生糸は大幅に品質向上することになる。彼は全国を回って良質な繭を探したという。また農民のための養蚕の手引き書「養蚕秘録」も記している。
ここで彼の選択であるが、この「養蚕秘録」を全国出版するか、但馬で独占するかである。結局彼は全国出版をして、日本全体で農民が豊かになる道を選ぶ。なお養蚕秘録はシーボルトが持ち帰り、フランス語やイタリア語などでも出版されたという。
蚕を守るための画期的発明
こうして養蚕が広がる中、福島(奥州)で画期的な技術改革が起こる。養蚕の大産地だった奥州だが、蚕を全滅させてしまう農家が頻繁に発生していた。理由は温度管理の失敗だという。この温度管理は綿密に行われる必要があった。そのための画期的手法を開発したのが奥州伊達郡の養蚕農家の中村善右衛門だった。彼は蘭方医のところでみたオランダ製の体温計を見て蚕室の温度の測定を考えつく。寒暖計もあると聞いて取り寄せるが、オランダ製で15両、1両で米150キロが返る時代には目の眩むような額だった。
中村はこれを安く作ることが出来ないかと開発を始める。悪戦苦闘して10年をかけて1849年に養蚕のための温度計である蚕当計を完成する。水銀の代わりに白絞油を使用したことで画期的に価格を下げることが出来た。これで蚕室の温度管理が可能となった。中村はこれに温度の目安などの使用説明をつけて世に出そうとした。しかしその頃、攘夷の気運が社会に満ちており、蚕当計は異国の機械を真似たとして批判されてしまう(アホな狂信者はこんなものである)。ここで中村の選択だが、批判を恐れずに世に出すか。時勢を鑑みて時を待つかである(相手はキ○○イなだけに何をするか分かったものでない)。結局は中村は販売を諦めて15年後に販売することになる。これは養蚕農家の必需品となる。
明治になってついに世界一へ
そして明治になって主力輸出品となった生糸であるが、開港直後の記録によるとヨーロッパで蚕の病気であったことから飛ぶように売れたという。しかしそれは長くは続かなかった。当時の手作業による製糸では量産すると糸の太さが一定せずに品質が悪化したのである。粗製濫造の結果、価格が大幅に下落することになる。その対策として政府は官営富岡製糸場を設立して器械製糸を導入する。質の高い生糸の大量生産が可能となると共に、ここで技術を磨いた工女達が各地で指導者として活躍することになる。ウィーン万国博覧会では彼女たちの生糸が出展されて世界に品質が認められることになる。そして1909年、日本の生糸生産量は世界一となり、以降30年に渡ってその地位を守ることになる。
以上、ゼロから始まった国内の生糸産業が世界一になるまでという江戸時代版プロジェクトXでした。技術者魂というか、自分の利益だけでなくてまさに全体の利益のために粉骨砕身した人物たちが複数いるというのがポイント。ただあまりに公益精神が強すぎたか、例えば上垣守国などは明らかにその功績に報いるだけの利益は得ていないということで、開発者利益がないのが日本の問題という話も出ていた。
ただこうやって日本を支える産業となった生糸であるが、その裏では「ああ、野麦峠」に描かれたような劣悪な環境で使い捨てにされていた工女の問題なんかも発生し、「えげつない資本主義」の勃興も起こってしまったのは歴史の暗部ではある。
忙しい方のための今回の要点
・生糸は明治以降に日本の主要輸出品として外貨獲得の柱となったが、日本は江戸時代初期には生糸はほとんどが輸入で国内生産はゼロに近かった。
・しかし江戸時代に長崎貿易で金銀流出が問題となり、新井白石が調べたところ、このままでは後100年で日本の金銀が枯渇する試算となった。
・白石は貿易を制限すると共に、国内での生糸生産を推進することになる。
・良質な生糸が作れなかった但馬では、上垣守国が全国を回って高品質の繭を探し、その蚕紙を持ち帰ることで但馬の生糸の品質向上に努めた。また彼は養蚕のマニュアルである「養蚕秘録」を全国出版、これで全国の養蚕の品質向上が行われる。
・また大生産地の奥州では蚕室の温度管理の失敗による蚕の全滅を防ぐべく、中村善右衛門がオランダ製の寒暖計をモデルに、安価な蚕当計を開発する。
・しかし時は攘夷の嵐が吹き荒れる時代。外国の器械を参考にした蚕当計は攘夷派の批判を受け、自身や家族への加害を恐れて中村は時勢を鑑みて販売を15年遅らせる。そして明治になって発売された蚕当計は日本の養蚕農家にとっての必需品となる。
・明治になってヨーロッパでの蚕の病気の流行で生糸は飛ぶように売れるが、当時の手作業での製糸は生産量を優先すると粗製濫造となって価格が大幅下落してしまう。
・政府はこの事態を解決するために官営富岡製糸場を設立、器械製糸を普及させて大量生産を可能とすると同時にここで訓練した工女が各地で指導者となる。こうして生糸の品質が向上、ついには日本の生糸生産量は世界一となる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・こうして日本の基幹産業となった生糸ですが、調べてみたところ、現在では中国に押されて日本で流通しているシルクの中の国産の繭は1%以下だとか。時代の流れってやつですかね。
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