教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/14 BSプレミアム 英雄たちの選択「踊って踊って大ブーム 一遍上人「鎌倉武士」を捨てた男」

鎌倉の世を席巻した「念仏踊り」

 元寇で世の中が騒然とする中、大流行したのが踊り念仏こと一遍上人の時宗。これの開祖である一遍は実は武士の出であったという。一遍が信仰に込めた思いは。

 番組ではまず一遍上人の踊り念仏がどのようなものであったかと言うことから迫る。今もその流れを汲んでいるという団体の踊りを紹介しているが、それらは結構ゆったりしたものである。しかし本当にそうだったのかを検証。絵巻に描かれている踊る人々の格好がてんでバラバラなことから、これらは一連の踊りの流れを描いていると類推(異なる時間軸の話を一枚の絵に記すのは絵巻ではよくある表現)して、これから踊りの振りを再現して、舞踏家に踊ってもらうということをしている。それによると意外に全身を使った大きな踊りである。

 もっともここには残念ながらリズムの要素が欠落しているので、本当にこれが当時のままのものかは不明。磯田氏はボソッと「もう少し早い可能性がある」というようなことを言っていたが、それは私も極めて同感。私の推測では当時の熱狂度から考えると、ディスコダンス並の激しいものであった可能性があるのではと考えている。ゲストの方からも荒れ狂うとかハイになるとかトランス状態になるという言葉が出ていたが、そういうものではないかと私も思う。

 

 

武家の出身であった一遍

 一遍は伊予の豪族である河野氏の生まれである。河野氏は瀬戸内海で活躍した水軍の一族で、祖父の河野通信は壇ノ浦の戦いで源氏方で勝利に貢献したことで、伊予国を代表する有力御家人となったが、承久の乱では後鳥羽上皇について敗北、一族の多くが所領を奪われて各地に流される。一方、一遍の父はどちらにも付かなかったことでわずかに領地を保つことが出来た。父の命で幼くして出家した一遍だが、父の死で家に戻って家督を継ぐことになる。僧のまま武士の生活に戻って妻子を儲けるが、親類の者に襲撃されて命を狙われるという事件が発生する。一遍は傷を負いながら相手の太刀を奪って命拾いする。親戚の武士に命を狙われたのは相続を巡る所領争いだという。鎌倉の殺伐とした世の中では、邪魔な者は殺害するというのがごく普通であったという。一遍は36才で、家も所領も捨てて流浪の旅に出ることになる。出会った人に念仏札を渡しては念仏を勧める旅を続けたのだという。

 しかし紀伊国で出会った僧侶に無理矢理に念仏札を渡したことで自身の行いに疑問を感じ始めた時、熊野本宮で山伏姿の熊野権現が現れて「阿弥陀仏が悟りを開かれた時に全ての人の往生は決まっているので、信不信を問わずに念仏を勧めるが良い」ということを言われたという(熊野権現はともかく、要は一遍はこの頃に自身の行いに悟りのようなものを開いたんだろう)。またその旅の中で一遍は自分の一族の墓の参拝して供養も行っており、自身の一族に対して思うところはあったのだろうという。結局は一遍は武士であることを完全には捨てられなかったのだろうという。

 

 

念仏踊りを全国に広げる

 最初は一人の旅だった一遍だが、やがて彼の教えに従う30人ぐらいの一行になっていたという。その一行は鎌倉を目指すことになる。時は第二回元寇の翌年であった。ここで一遍は鎌倉で踊り念仏をすることを考える。しかし鎌倉入りの時に執権北条時宗の行列と出くわす。静止の命令を聞かずにボロを纏った一遍は進み続ける。ここで一遍の決断であるが、あくまで鎌倉入りを進めるか、それとも他の地で踊り念仏を続けるかである。

 これに対してゲストの意見は半々だったが、一遍は静止する武士に対してひるむことなく堂々と対応し、鎌倉の外でなら認めるという言葉を得たという。そして鎌倉近くの片瀬の地で踊り念仏を催して、鎌倉の人々も訪れて4ヶ月も続いたという。これで一遍の評判は広がり、次いで西国で次々と開催してついには京都でも盛大に催される。しかし一遍は拠点となる寺院は建てず各地の放浪を続け、片瀬での踊り念仏の7年後に兵庫の摂津の浜で重い病気に倒れ、そこで自身の本などを焼却して踊り念仏は自分一代のものと言って亡くなったという。とは言うものの、未だに継承されているということは、やはり弟子の中で伝えた者がいたんだろう。弟子達にしたら「今更自分の教えは一代のものと言われても、俺たちはどうすりゃいいんだ」ってのが本音だろうし。

 

 

 以上、一遍上人について。どうも彼の場合は他の仏教のように本山の寺院を構えて大々的に教団を編成してというのでないので、何やら時代を駆け抜けた一陣のブームという印象で通り抜けてしまっていますが、民衆に仏教の草の根を広げるという意味では貢献はあったのでしょうか。

 なお踊り念仏というキャッチーな企画を考えたプロデューサーという側面もありましたが、思いの外本人は純粋に武士の世をはかなんで救済を求めていたようです。商売っ気だったら、余程弘法大師の方が強かったような気がします。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・元寇で世の中が混乱する中、全国的に大流行したのが一遍上人の踊り念仏だった。
・一遍は伊予の河野氏の出身だが、承久の乱の影響で一族が没落する中、所領争いに巻き込まれて殺害されかけたことで家も所領も捨てて全国を放浪する旅に出る。
・その中で彼は各地を回っては踊り念仏を実施して、念仏札を配って回るようになる。
・最初は一人だったのが、30人ぐらいの一行になったところで鎌倉入りを目指すが、武士によって拒絶され、鎌倉の外の片瀬で念仏踊りを催し、鎌倉からも大勢が訪れて4ヶ月の間行われる。これで一遍は評判になり、西国各地で念仏踊りが催され、ついには京でも大規模に実施される。
・一遍は片瀬での念仏踊りの7年後、兵庫の摂津で病に倒れてこの世を去る。念仏踊りは自分の一代のものとして、自身の存在をも抹消するかのようだったという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・どの宗教でもありがちなんだが、開祖はそれなりに思うところがあって結構真面目に信仰に取り組んでいても、弟子達が教団作って組織になっていく過程でおかしくなるってことがある。そういう意味では一遍はそういう教団のあり方も嫌だったんじゃと言う気もする。もっとも自分は亡くなってそれっきりで良くても、少しは弟子達の身の振り方は考えてやってもと思わなくはない。

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