教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/30 BSプレミアム 英雄たちの選択「宿命とともに生きて~光明皇后 苦悩の素顔」

聖武天皇の后・光明皇后の生涯

 今回の主人公は聖武天皇の皇后である光明皇后。天皇の皇子を生むことを求められながらも、それを果たせなかった彼女は苦渋の選択をすることになる。その選択について。

 光明皇后は藤原家の出身である。父は藤原不比等でその娘の光明子が後の光明皇后である。彼女は父不比等による、娘と文武天皇の子である首皇子を天皇に据え、その後に光明子を皇后に据えて藤原氏の血を引く天皇と皇后となり、その血筋が天皇位を継いでいくという構想を背負うことになる。光明子は16才で皇太子となった首皇子の后となり不比等の構想は順調に実を結ぶ。2年後には2人の間に娘である阿倍内親王が誕生する。

 そして724年、首皇子は即位して聖武天皇となる。不比等は既にこの世を去っていたが、藤原氏の念願が叶ったことになる。その3年後に男子が誕生、基王である。夫婦は大喜びで生後33日で基王を皇太子に立てる。光明皇后も責任を果たしたと安堵したという。

 

 

権力を守るために粛正に走る藤原氏

 しかしその基王が満1才の誕生日を迎えることなくこの世を去る。さらに聖武天皇の別の后との間に安積親王という男子が生まれる。これは藤原氏にとっては由々しい事態だった。

 その翌年、政権を担っている左大臣の長屋王が謀反を企んでいるとの密告がある。そして長屋王は自害に追い込まれる。これが長屋王の変である。この件は藤原氏が敵対勢力になりかねない長屋王を排除したとみられている。そして光明子の兄たちが朝廷の要職を占めることになる。それから半年、光明子は皇后に立てられることになる。皇后とは天皇と共に政務を司る共同統治者でもあった。後は光明皇后が男子を産むことを待つだけだった。

 しかしこの時代は飢饉や疫病で民は苦しんでいた。聖武天皇と光明皇后は国家安寧の指針として仏教を重視する。興福寺など多くの寺院を建造する。また光明皇后は尼寺の建設にも力を入れたという。さらに施薬院や悲田院などの福祉事業も実施したという。また病院を癒やすための浴場も建設した。光明皇后は政務に励むが、男子を得ることだけは叶わなかった。

 

 

後ろ盾を失い、男子も得られなかった光明皇后の苦渋の選択

 そして天然痘が都で猛威を奮い、光明皇后は兄である藤原四兄弟などの後ろ盾の大半を失うことになる。こうした中、天皇と皇后は21才となった阿倍内親王を皇太子に立てる決断をする。女性を皇太子に据えるのは初めてのことであった。これは政治の空白を作ることで謀反などの企てが起こらないようにするという意図があった。だがこれは光明皇后にとっても葛藤があっただろうという。草壁皇子から引き継がれた刀について阿倍内親王にあえて渡さないということをしているという。阿倍内親王には夫がおらず子がいない。また光明皇后も既に38才となり皇位継承には難しいものがあった。結局は皇位継承問題を先送りにしただけでもあった。

 744年皇位継承者の有力候補だった安積親王が急死する。これで皇位継承に近い聖武天皇の子は阿倍内親王のみとなる。この頃から聖武天皇は体調を崩すことが多く、とうとう娘に皇位を譲ることを決意。749年に阿倍内親王が即位して孝謙天皇となる。そして光明皇后は皇太后となり、政権運営の中心として甥の藤原仲麻呂を起用する。仲麻呂は政務と訓示を司る紫微中台の長官に就任する。孝謙天皇を仲麻呂と光明皇太后が支える体制が整えられる。しかしこれに不満を持つ貴族は多く、水面下で謀反を目論むものも多かった。そんな中756年に聖武天皇が崩御する。聖武天皇は後の皇位継承争いを避けるために道祖王を次の皇太子とするという遺言を残していた。彼は天武天皇の孫に当たる人物で藤原氏の血も濃く引いていた。

 聖武天皇の死後に道祖王は皇太子に立てられるが、これが素行が悪く皇太子に相応しくないという良くない噂が多かった。そこで孝謙天皇は仲麻呂に近い大炊王を皇太子に立てることを考える。彼も天武天皇の孫に当たるが、明らかに仲麻呂の意向が反映していた。ここで光明皇太后は聖武天皇の遺言にしたがって道祖王を支持するか、孝謙天皇の意志に従って大炊王を支持するかである。ゲストの意見は分かれるのだが、結局は光明皇后は大炊王を支持することになる。翌年孝謙天皇は退位して、大炊王が淳仁天皇として即位する。光明皇后は淳仁天皇に草壁の皇子の刀を渡したとみられる。淳仁天皇の即位を見届けると光明皇太后は60才でこの世を去る。

 しかし彼女の死後、藤原仲麻呂と淳仁天皇が孝謙太上天皇と激しく対立するようになり、ついには戦いが勃発し、皇位を巡る戦乱が発生して奈良の都は混乱することになる。

 

 

 以上、光明皇后についてだが、実はこの後に孝謙天皇の元での大混乱がある。実はこの大混乱の原因は孝謙天皇が道鏡に惚れ込んでしまい、彼を引き立てようとしたというところに発祥している。孝謙天皇と道鏡の間には確実に男女の関係があっただろうというのも言われているところである。どうも皇室の都合で独身のまま留め置かれていた孝謙天皇が道鏡という男に魅入られたというところか。結局は藤原仲麻呂は反乱を起こして失敗して亡くなり、淳仁天皇は廃位されて流罪となっている。

 光明皇后は聖武天皇の共同統治者としてかなり有能だったようだが、結果としては皇子が出来なかったのが不幸であり、最終的には不比等の「藤原氏の家系を天皇家と一体化する」というのはこの時には失敗した形になる。が、その構想はその後も藤原氏に引き継がれ、道長の時に1つの完成を見たと言うべきだろうか。

 光明皇后は娘の阿倍内親王に割を食わせたという罪の意識もあったのではとのことであるが、阿倍内親王がそのことをどう思っていたかは不明であるが、晩年の暴走っぷりを見ていると、いろいろと腹の中で思うところがあった分が爆発していたような節も見られるように思われる。とにかくこの時代の皇室、特に女性は自由が皆無であるから、ツラい面も多々あったろう。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・後の光明皇后である光明子は藤原不比等の娘として生まれ、不比等の藤原氏と天皇家を一体化させるという構想の下に首皇子(後の聖武天皇)の后となる。
・聖武天皇が即位したことで不比等の構想は成功するが、その時には既に不比等はこの世にいなかった。光明子は聖武天皇との間に娘を儲けた後、皇子も出産するがその子は1年も経たずに亡くなってしまう。
・その後に聖武天皇が別の后との間に安積親王を儲けたことで危機感を持った藤原氏は、長屋王などの有力者を粛正、光明子の4人の兄が朝廷の要職を占めることとなり、光明子も皇后に立てられる。
・皇后となった光明子は聖武天皇と共に仏教の振興など政治に注力するが、結局はその後に皇子を得ることは叶わず、娘の阿倍内親王を皇太子に立てる非常手段に出る。
・その後に阿倍内親王は孝謙天皇として即位、聖武天皇が没する時には未婚の孝謙天皇の皇太子として道祖王を皇太子に指名する遺言を残す。
・しかし道祖王は素行が悪く皇太子に向かないとの声が高まり、孝謙天皇は阿倍仲麻呂に近い大炊王を皇太子に推し、光明皇后もそれを支持する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあこの時代はこの時代で大変でしたというお話です。特に権力闘争の狭間にいるとやるかやられるかの血生臭い世界になります。一応光明皇后は最後まで安泰でしたし、孝謙天皇も権力闘争で勝利する側ではありますが。

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