教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/10 NHK 歴史探偵「桜田門外の変」

桜田門外の変の真相

 今回テーマは桜田門外の変。幕末、大老の井伊直弼が暗殺された血生臭い要人テロである。実行犯は水戸藩士であったが、この件に関して新資料の発見などもあったという。

 犯行現場の桜田門は今の警視庁の前ぐらいだという。井伊直弼の屋敷は桜田門の近くなので移動は400メートルぐらいであり、襲撃出来るチャンスは限られるという。また襲撃者は18人に対して彦根藩の一行は60人だった。さらに井伊直弼は居合いの達人であり、自ら新流派を起こすほどの腕前だったという。このような一見すると成功は困難だと思われる中でどうしてこの暗殺が成功したのか。

暗殺された井伊直弼

 現場付近に行列の見物人のふりをして実行犯達は潜んでいたという。そこに彦根藩の行列がさしかかると、リーダーの関鉄之介の指示で一行は行動を開始する。まずは行列を止めるために直訴状を差し出す。それを合図に銃声が響き一斉に斬りかかったという。この時に彦根藩の従者の半分ぐらいは逃走してしまったという。それは彦根藩の従者の半分はいわゆるアルバイトであったので、命がけで守る義理はなかったということだったらしい。これで残ったのは26人。しかし彦根藩士達は刀に袋を被せていた上に手がかじかんで刀を抜くことが出来ず、結果として次々と切り倒されることになってしまったという。

 この事件のきっかけは攘夷派の徳川斉昭と開国派の井伊直弼が対立し、直弼が斉昭を政権中枢から追放して謹慎を命じたことによる。

 

 

用意周到に武器を用意していた襲撃犯

 また居合いの達人である井伊直弼がむざむざと殺害されたことだが、それについては実行犯達の供述書が見つかったとのことで、そこではピストルを使ったことが記されており、最初の一発で井伊直弼は胸を撃たれて即死の状態だったのだという。なお関鉄之助がピストルを持っていたことは分かっているが、直弼を銃撃したのは鉄之介でなく、最初に直訴状を差し出した森五六郎だったという。駕籠に接近した五六郎が藩士達を切り倒して至近距離で直弼を銃撃したのだという。なお彼らが用いたピストルはペリーが持ち込んだものを元にして水戸で製作されたものだという。

 水戸では攘夷を実行するために、軍備を強化しようと大砲や銃などの製造を行う矢倉方という組織を設置していたという。この銃はその一丁だったと考えられる。また武器製造を行っていた矢倉方の下級役人である森山繁之介が参加しており、彼も銃をもって参加したとみられる。つまりは実行犯達は少なくとも3丁以上の銃を持っていたのだという。

水戸斉昭は攘夷のために武器の強化を進めていた

 また参加者を見ると水戸藩の浪士だけでなく、民間の者も含まれているという。恐らく政治意識が高まって、義憤を抱いて事件に参加したのだろうという。

 

 

事件の後の顛末

 なお事件後に幕府は直弼の死を直ちには公開しなかった。それは彦根藩は後継者を定めていなかったことから、このままだと彦根藩が取りつぶしになるので、幕府にとって重要な大藩である彦根藩を取りつぶすわけにもいかず、さらにそうなると彦根藩士達が赤穂事件の再現を起こしかねない。そこで直弼が生きていることにして、直弼の次男を後継者に定めて彦根藩を守ったのだという。

 しかし彦根藩士はそれでは収まらなかった。藩士達は「主君の仇討ちだ」と騒然となって武器を集めて一触即発の事態になったという。彦根藩と水戸藩が正面から衝突となると日本を二分する大乱になりかねない。そこで将軍家茂が自ら彦根藩にここは耐えて欲しいという文書を送った。さらに斉昭が5ヶ月後に亡くなったことで怒りの対象が消えたことで次第に沙汰止みになったのだという。

 もっともこれは後に影響を与えることもあったという。それは徳川慶喜が斉昭の息子だったことから、彦根藩はシラケてしまって戊辰戦争で新政府軍に付くことになってしまった(実際はかなり積極的に戦っている)という。

 

 

 以上、桜田門外の変について。直弼が剣の達人だったことは知られており、なぜそれがむざむざと殺されたのかということについてはいろいろ説もあったが、いきなり駕籠の外から銃撃されたとなればどうしようもなかったろう。何かこの辺りも時代の変化というか、ある意味で武士の時代の終わりを告げる事件だったのかもしれない。

 それにしても慶喜が水戸藩の出身というのは、色々な面で祟ったところがある。結局はこの件が元で彦根藩はむしろ積極的に討幕側に回ってしまったし、譜代の彦根藩どころか親藩である尾張藩まで新政府側に付いたのだからどうしようもない。水戸藩は本来は将軍を出さない相談役的ポジションの藩だったので、その辺りの違和感もあるだろう。ただ親藩とかいっても、家康の頃には藩主が兄弟だったかも知らんが、それからかれこれ200年から経ったら、単に徳川名乗っているだけの赤の他人だからな・・・。尾張なんて将軍家斉が取り込み図って息子を藩主として送り込んだら、ことごとく「病死」させているし。家康が築いた親藩や譜代で固めた鉄壁の江戸防御システムも、時代が変わると最早機能しようがなかったというわけで。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・桜田門外の変での襲撃犯は18人、これに対して彦根藩側は60人だったのだが、半数近くがアルバイトであったために逃亡、結局は残ったのは26人だったという。
・さらに雪が降っていたことから、彦根藩士は刀に被せた袋の紐をかじんかんだ手ではほどけず、刀を抜けないまま倒されてしまう。
・また井伊直弼は居合いの達人であったが、襲撃犯が所持していたピストルの銃撃で即死状態で、抵抗の余地はなかったという。
・襲撃犯が所有していたピストルは、ペリーが持参したものを水戸藩の武器製造部である矢倉方でコピーしたもので、一行は少なくとも3丁を所持していた。
・井伊直弼は後継者を定めていなかったため、そのままでは彦根藩が取りつぶしになる可能性があったことから、幕府は直弼の死を伏せて、次男に家督を継がせてから直弼の死を公表した。
・藩主を殺された彦根藩士は激怒、水戸藩と一戦を構える姿勢を示すが、将軍家茂が自ら耐えて欲しいという書状を送ったことと、水戸斉昭が5ヶ月後に亡くなったことで事態は有耶無耶に決着する。
・しかしこの時の遺恨が尾を引き、斉昭の子である慶喜が将軍となった幕府に対して彦根藩は反発、新政府側に荷担することになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・井伊直弼は彼なりに考えがあったんでしょうが、あまりに強権的な姿勢をとったことから、テロという形で反発を受けることになってしまいました。まあとにかく国の浮沈をかけて素早い決断が必要で、日本の伝統的な根回しで合意を取るという余裕がなかったのは理解出来るんですが・・・。まあ直弼にしたら「では、どうしろと言うんだ」ってところはあったでしょうね。
・まあこの一件は幕府の威信に決定的に傷を付けたのは間違いなく、この辺りもその後の討幕の機運に結びつく一因にはなったでしょう。
・しかしつくづく、慶喜って貧乏くじを引いた人なんですよね。慶喜って実際はトップよりも参謀型だったから、家茂が早々と亡くなったことなんかも不運です。

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