平安京を作った桓武天皇
新年度、杉浦友紀アナが浅田春奈アナにスイッチしての第一回は、どうやら平安時代を特集する模様。まあこの辺りは明らかに大河絡みだろう。今回の主人公は平安時代を始めた桓武天皇について。
781年に即位した桓武天皇であるが、その先行きは決して平坦なものではなかったという。桓武の母親は側室で渡来人の家系であった。母親が皇族か有力な氏族でない桓武の即位は異例の事態であったのだという。そして即位の翌年、大伴家持ら35人が桓武を天皇位から引きずり下ろそうというクーデターを企てる。企ては未然に発覚して関与した者達は捕らえられたが、桓武の地位の危うさが浮き彫りになった。さらには東大寺などの仏教勢力も桓武に従っていなかった。豪族と仏教寺院の両方の勢力を削ぐ必要がある桓武は、大胆な策として遷都を打ち出す。
長岡京に遷都して新しい体制を作る
784年6月、遷都を決めた桓武は長岡京の造営を始める。実態が不明なところが多い長岡京であるが、難波京の建造物の多くを淀川の水運で長岡に輸送したことが分かっているという。半年間でスピード遷都を行い、反対勢力が動く余裕を与えなかったのだという。785年の元日には桓武は長岡京大極殿で朝賀の儀を行っている。この遷都により、地方に根拠のある豪族達の勢力は削がれた。さらに長岡京では大寺院の遺構が残っておらず、仏教勢力の長岡京への移転を桓武が許さなかったのだという。長岡京を桓武は旧勢力を排して天皇が実権を握るための都として建造したのだという。
785年9月、桓武の命を受けて遷都を進めていた藤原種継が暗殺されるという事件が発生する。実行犯の尋問によって、桓武政権を打倒して桓武の弟の早良王を天皇にしようという陰謀が発覚することになる。早良王は仏門に入っていたが、桓武の即位と共に還俗して皇太子の地位に就いていた。一味には東大寺の僧もおり、豪族と仏教勢力が結んでのクーデターであった。桓武は弟を呼び出すと弁明も聞かずに幽閉、無実を訴えて食を断った早良は十数日の後に死亡する。それでも桓武は彼の罪を許さずに、その亡骸は淡路に流刑にされる。
クーデターの1月半後、交野で郊祀という中国の皇帝が自身の支配権を宣言するための祭祀を行う。ここで桓武は王朝の始祖として天照大神でも神武でもなく、父の光仁天皇を祀る。伝統から来る自身の正当性が疑われていた桓武は、ここで新しい王朝を宣言したことになる。そして百済王氏を重用することにする。渡来人の出自である桓武は、それを逆用して王権の強化を図る。
しかし凶事の連続で新たな遷都を行う
しかし790年、皇太子である息子の安殿親王が病に冒され、さらに2年後には洪水に見舞われて甚大な被害が出ると共に疫病も蔓延した。原因を占わせたところ早良親王の祟りだとされた。ここまで不吉が続いたことで長岡京を捨てるべきではの声が出てくる。ここで桓武の選択である。長岡を放棄して再度の遷都を行うか、長岡京に留まるか。
これに対してゲストの意見は分かれる。気持ちを一新するために遷都するという考えと、必要な資財などを考えると長岡に残留すべきというもの。なお私の場合もやっぱり占いや祟りの類いは全く信じないという大前提(平安の人々はこうはいかないだろうが)があるので、無駄を省くという意味でも長岡京残留である。
桓武の選択であるが、歴史にも残っているように遷都を選ぶ。そして選んだのは山城盆地の京である。794年10月28日、桓武は遷都の詔を発する。今までの地名を関した都でなく、平安京と命名した。これは桓武の願いのこもったものだという。平安京には奈良仏教とは異なる新たな寺院を呼び込み、さらには神社も作って都を守護させる。そして天照大神を再び天皇の祖として重視することにした。桓武は天照大神を祀る斎宮を伊勢神宮に築いて天照大神の元に天皇を権威づけた。そして桓武は蝦夷の討伐を実行するなどして天皇の支配を強化する。
即位から25年が経った805年、69才の桓武は重大な選択を迫られる。2人の貴族が徳政相論という議論を繰り広げ、その結果として都の建設と蝦夷の討伐が民を苦しめているとしてこれを廃止、民の安寧を重視する方向に舵を切る。そしてその三ヶ月後に桓武は崩御する。
改革者としてひたすら改革に突っ走りながら、最晩年には安定路線に転じてその後の長い時代を築いたという桓武天皇の話。後の時代の流れを見た時に、桓武が日本に与えた影響というのは極めて大きかったと言えるだろう。
桓武自身が渡来人の末裔ということで、渡来人の文化を重視したのであるが、ただだからといって日本が東アジア風に完全に染まったのでなく、結局は日本独自の国風文化がこの後に花咲いていくというところも興味深い。桓武はそれまで平城京的体制をぶちこわすためのアンチテーゼとして中国風や百済風を持ってきたのであるが、結局はそれ一辺倒にはしなかったと言うことだろう。最終的には天照大神を祀るなど、それまでの日本の伝統と折り合いをつけているという辺りのバランスの取り方が上手い。改革を掲げる者は往々にして苛烈にすぎて破壊するだけに終わってしまって世の中を混乱させてしまうことも少なくないのだが、その辺りは桓武は強かな現実主義者でもあったのだと思われる。
それまでの天皇と一線を画する政治的センスを感じるのであるが、それもやはり桓武が淀んだ皇族の血ではなく、渡来人という外部の血を入れた人物であるということも多いのだろうという気がする。やはり歴史的に見ると血の停滞というのが一番人材の劣化を招くようである。
忙しい方のための今回の要点
・781年に桓武が天皇に即位するが、母が側室で渡来系であったことから豪族などの後ろ盾がなく、そのためにその政権は当初から不安定さを持つことになる。
・即位の翌年、大伴家持ら35人の豪族のクーデター計画が発覚。さらには東大寺などの仏教勢力も桓武に敵対していた。
・桓武は彼らの勢力を削ぐために長岡京への遷都を決定する。都が移ったことで地方に勢力のある豪族は弱体化し、さらには長岡京に寺院を持ち込ませなかったことで仏教勢力も排除する。
・しかし豪族と仏教勢力が手を組んで、桓武の弟である早良親王を担ぐ陰謀が発覚、桓武は早良親王を幽閉、彼は無実を主張して食を断って死亡。しかし桓武は早良を許さずに遺体を淡路島に流罪にする。
・790年、皇太子の安殿親王が病に倒れ、2年後には長岡京が水害で甚大な被害を出して、その後に疫病が蔓延するなどの凶事が続き、長岡京を捨てて遷都するべきとの声が上がり始める。
・794年、桓武は京への遷都を決定する。こうして平安京が築かれる。桓武はここに奈良仏教徒は異なる新たな寺院を建設する。そして蝦夷討伐の実行など、天皇の権威の強化を行う。
・805年、69才の桓武はそれまでの都の建設や蝦夷の討伐を停止し、民の安寧を重視する方向を決定、そしてその三ヶ月後に崩御する。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・改革者であるが、その後の方向を定めるところまで行ってからこの世を去ったという辺りは、なかなかの人物であるようである。もっともこれらの考えが桓武1人から出ているとは考えにくく、誰か優秀な参謀がいたと思われるのだが、どうもその辺りはハッキリと残っていないようでもある。
次回の英雄たちの選択
前回の英雄たちの選択