実は武勇を振るわなかった源頼光
四天王と共に酒呑童子を退治したという武勇伝で知られる源頼光。しかしその実像は藤原道長に取り入って出世した武士というのが本当のところだという。それに対して真に源氏の武を司ったのは弟の頼信である。今回はこの兄弟に注目する。
頼光は父を超える出世をして殿上人になった人物であるが、彼の出世の秘密は父から受け継いだ財産を惜しげもなく道長に対しての贈り物などに使用して媚びたことによるという。道長の屋敷が焼けた時などは直ちに美濃から駆けつけ、2年後に道長の邸宅が再建された時には豪華な調度品を贈ったという。このような道長に接近したことで、頼光は機内西国の豊かな国の受領を歴任する。これで頼光は巨万の富を得て道長への経済的奉仕を続ける。また内裏を警護する大内守護に任じられ、子孫はこれを家業として継承することになる。
頼光に出世で遅れた弟の頼信
これを頼光より20才年下の腹違いの弟である頼信は複雑な気持ちで見ていた。頼信は道長の兄の道兼に接近したのだが、道兼は関白になれずその兄の道隆が摂政になった。頼信は道隆を殺すと言ったらしいが、それを頼光が「殺せるか分からないし、それをしたことで道兼が関白になれない可能性がある」と諫める。5年後道隆は病死、道兼が関白となるがわずか10日後に流行病で死去する。その後、頼信は道長に仕えるが頼光のようには出世できず、上野や常陸などの東国を受領したに過ぎない。
頼信が受領した東国は紛争の絶えない乱れた地だった。頼信はそこで実力で頭角を示す。税を納めない地方豪族の平忠常に対し、頼信は討伐を決めて大軍勢で忠常の本拠である下総に攻め込む。しかし常陸から下総に攻め込むには霞ヶ浦水系の香取の海が障害となる。忠常は渡し船をすべて隠して川を渡れなくする。迂回していたらその間に忠常側は防御を整えるか逃走する可能性がある。頼信はこの辺りに馬が渡れる浅瀬があると聞いているとして、実際に馬で水域を横断する。これに忠常軍は大混乱して忠常は降伏する。頼信がなぜこの浅瀬を知っていたかであるが、恐らく以前にこの地を治めていた先祖から伝わっていたのではという。
武功で頭角を現す頼信の決断
源頼光が1021年に74才で正四位下まで出生してこの世を去ると、6年後に藤原道長が病死する。その翌年1028年、平忠常が安房の国衙を襲って安房守平惟忠を焼き殺して、上総国の国衙を占拠するという大事件が発生する。これに対して頼信が追討使に推挙されるが、道長の息子の関白藤原頼通が公卿会議の結果を覆し、頼通の家人の平直方が任命する。以前より忠常と対立していた直方は、これが忠常を蹴落とす絶好の機会と考えたのである。直方は手勢を率いて都を出発するが、争いは泥沼化して2年が経過、上総の国は戦乱で荒廃する。そして1030年、ついに直方は更迭され代わって頼信が任命される。ここで頼信の選択である。徹底討伐で武名を上げるか、降伏するように説得するかである。
これはゲストの意見は分かれたようであるが、私の意見は降伏させる。既に討伐の時に推挙されている時点で既に武名は轟いているわけだから、別にわざわざ犠牲を払っても得にはならないしというもの。それに狡兎死して走狗煮られると言われるように、これから先に軍事力を売りにするなら、世の中に不穏の種が残っている方が有利という計算もある。
そして頼信のとった行動だが、都で僧侶となっていた忠常の息子を連れて行って説得させた。降伏した忠常は頼信と共に都に向かうが途中で病死して(ホントか?)、首だけが都に届けられたとのこと。なお忠常の他の2人の息子は降伏しようとしなかったが、討伐しようとする朝廷を頼信が説得してお咎めなしになったという。頼信は美濃の受領となり、平直方に接近して息子の頼義と直方の娘を結婚させ、これで直方が持っていた鎌倉など東国の平氏拠点が源氏のものとなったという。そして頼信は80才前で河内守に任じられる。この世を去ったのは81才でのこと。官位は従四位の上と兄には及ばなかったが、彼の家系が源頼朝につながっていくのだという。
以上、磯田氏が「光らない源氏の君」と言っていたが、地味だけど歴史的に重要な人物のお話。それにしても源頼光が実は武勲での功績はほとんどないってのは、なかなかに衝撃的な話であった。まあ伝説の類いって大体そんなものなんですが。特に権力者に近い奴等は、自分達に都合の良い伝説とか作っちゃうことが多いんで。
で、その影に隠れた地味な弟が実際は真の実力者だったってことか。これが後の源氏の本流になったようだから、歴史的な重要性はかなり高い人物ってことだが、世間的に注目を受けたことはあまりないようである。まあこの番組はそういう人物に注目するのが大好きなわけだが。さすがに私でも「誰?」って言うような人物が登場することが、数回に一回ぐらいあるからな。
忙しい方のための今回の要点
・酒呑童子退治などの武勇伝で知られる源頼光は、実は武勲ではなくて藤原道長に巧みに取り入ることで出世した人物であり、最終的には正四位下まで出世して74才でこの世を去った。
・頼光の20才違いの腹違いの弟が頼信であるが、彼も最終的には道長に仕えたが兄ほどには出世出来なかった。しかし彼は独自の軍事センスで頭角を現す。
・常陸の受領を務めた際は、平忠常の反乱を香取の海の浅瀬を軍勢で渡河することで急襲して平定、忠常を降伏させる。
・道長の死後、忠常は再び反乱を起こす。最初は平直方が派遣されるが戦況は泥沼化。直方罷免の後に頼信が派遣される。頼信は出家していた忠常の息子を使って忠常を説得、降伏させることに成功する。また降伏しなかった忠常の他の息子達についても、朝廷を説得して赦免させる。
・頼信は81才で亡くなった時は従四位下と兄にはわずかに及ばなかったが、彼の血筋が後の源頼朝につながることになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・地味な実力者の源頼信のエピソードでした。まだ彼の頃は貴族を押しのけて天下を取るという時代でなく、あくまで貴族統治下で貴族達と肩を並べるということを目標にしていたようです。平清盛のように貴族を押しのけて取って代わるっていうのが現実的に見えてくるのはもっと後の時代になるようです。
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