教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/22 BS11 歴史科学捜査班「幕府VSペリー 巨大蒸気船「黒船」の威力」

 今回は幕末のペリー来航について検証。まずペリーが率いてきた黒船だが、その大きさは全長78.3メートルと当時の日本最大の船の10倍の大きさがあったという。蒸気機関による外輪を装備しており、最高スピードは帆船の2倍の時速18.52キロが出たという。また巨大な大砲を9門装備した最新鋭の軍艦だった。ペリーはこの蒸気船2隻に帆船2隻を加えた4隻の艦隊で日本を訪れている。しかし実はこの艦隊編成はペリーにとっては不本意なものだったのだとか。ペリーは当初は12隻の艦隊を要求していたらしい。だから当初の目論見よりもかなりしょぼくなったと感じていたようだ。

 ペリーがここまで軍事力に拘ったのには理由がある。ペリー来航の1年前にアメリカ海軍のビットルが日本に開国を迫って訪れているが、彼が率いていたのは2隻の帆船だったために軍事的な行動が限られて、幕府に追い返されてしまっていたのだ。だからペリーはより自由度の高い蒸気船に拘ったのだという。なおこれらの船が黒船と呼ばれるようになったのは木材の防腐処理のために塗られたコールタールのためだったとのこと。そう言えば私が小学生ぐらいの頃は、黒船は鉄の船だったと習った記憶があるのだが、これによるとそれは間違いということのようだ。となると、日本はこれに対抗するのに信長の鉄甲船をを出していたらどうなるだろうなどと妄想する(笑)。

 ペリーはアメリカ大統領からの国書を渡すと翌年の春に再び来訪することを告げて一旦引き上げる。この間の日本の対応だが、手をこまねいていたわけではなく、実は万全の準備を取っていた。まず江戸湾に6カ所の台場(計画では11カ所の予定だったが、財政難で半減した)を建設してここに大砲を据え付けた。なおこの大砲は韮山に建設された反射炉(最近世界遺産認定を受けた)で製造された。また沿岸に屋敷を持つ諸藩にも命じて砲台を設置させている。江戸湾は水深が浅いために大型船の航路は限られるので、その狭い航路に入ったところを狙い撃ちする戦略を練っていたという。

 しかし実際に交戦となったらどうなっていただろうか。日本側の当時の大砲の射程は2.4キロ、これに対して黒船に搭載された大砲の射程は4キロあったという。しかしそれよりも決定的問題は、日本の大砲は単に金属の砲弾を撃ち出すだけだったのに対し、黒船の砲弾は炸裂弾になっており破壊力が桁違いだった。もし交戦になったら江戸の町が甚大な被害を受けたのは間違いないという。

 しかしペリーは実はアメリカ大統領から「交戦してはならない」との命を受けていた。一方日本側も「こちら側からは絶対に手を出すな」との指示をしており、結果としては平和裏に条約が締結されることとなり、下田と函館が開港されることとなった。

 なおこの下田と函館であるが、ペリーは横浜を望んでいたのだが、やはり江戸に近すぎることから幕府が拒絶したようだ。下田も函館も幕府の統括地であり、いろいろと都合が良い場所だったという。また下田の住民は以前より難破船などの外国船を多数目にしており、実は外国人に対してさほど抵抗を持っていなかったので、開港後も特に問題なしにアメリカ人を受け入れたらしい。以前はよく、アメリカ側の脅しに混乱した幕府は打つ手もないまま言いなりになったかのように言われていたが、実はどっこい結構したたかな外交交渉も行っていたということが分かってきたようだ。

 以上、ペリー来航について。まあ実際に交戦していたら黒船を沈没させることは可能だったかもしれませんが、こちらも甚大な被害を出したでしょう。結果として双方にとってもっとも賢明な落としどころに持っていったということでしょうか。なお近年の研究では幕府は完全に不意打ちを食らったのでなく、黒船の来襲はある程度事前に察知していたとのことなので、いざという時の対応もある程度事前に想定していたのでしょう。意外なことですが、鎖国中の幕府は実は結構海外の情報に通じていたようです。幕府が海外事情音痴で黒船来航におたついて打つ手なしだったように今まで言われていたのは、実は明治政府による幕府に対するネガティブキャンペーンだったのではという気もします。幕府の無能さを強調することで自分たちの正当性を主張するという、中国で王朝交代の度に行われているパターン。幕末史もそういう観点で見直す必要はありそうです。


忙しい方のための今回の要点

・ペリーが率いていた4隻の軍艦の内、蒸気船は2隻。しかしこれは当時最新鋭の軍艦だった。
・ペリーが蒸気船に拘ったのは、その前年に帆船を率いて日本に来たビットルが交渉に失敗したという事実があったから。
・日本は砲台を設置して黒船を待ち構えたが、結果的には交戦を避ける選択をして函館と下田を開港した。実はこれはしたたかな外交交渉でもあった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・世界遺産認定を受けた韮山反射炉は、今観光でかなり盛り上がっています。
・ペリーが来航した理由の一つは捕鯨船の補給地などの確保のため。この頃に鯨を大量に捕獲して生息数を激減させたのは欧米です。日本が鯨を絶滅寸前に追い込んだみたいに言っているシーシェパードなどは人種差別主義の嘘つき集団です。
・日本の大砲はこの頃でもまだ金属の玉を発射するだけのものだったということは、大坂の陣の頃からほとんど進歩していないということです。それだけ平和な時代だったということでしょうか。