教養ドキュメントファンクラブ

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5/27 BS11 歴史科学捜査班「元寇の新事実 沈没船からお宝発掘!」

 鎌倉時代に日本が初めて体験した対外戦争である元寇。この時は元の集団戦法や新兵器で鎌倉武士はケチョンケチョンにやられたが、たまたまやってきた台風で蒙古の船団は全滅して日本は助かった・・・というのが通説だったが、それは違うのではという話。

 ・・・なのであるが、実のところもう既に実は日本軍も結構善戦していたという話は近年あちこちで出ており、以前にヒストリアなんかでもそれは扱っている。

日本軍を翻弄した蒙古の火薬兵器

 日本軍を翻弄したという新兵器は火薬を使用した「てつはう」というものだが、これは陶器の中に火薬を詰め、そこに鉄片などを入れた炸裂弾である。これはちょうど忍者が使用していた焙烙と同じようなものであるということで、以前に行った焙烙の再現実験でその威力を復習している。

神風はなかった

 そしてこの後、元寇の専門家が登場して通説を覆す。まず蒙古の弓の方が日本の弓よりも性能が良かったという点については、実は日本の弓の方が高性能だったとしている。実際に残されている絵などでも、日本の矢が蒙古軍の楯を貫いて兵に傷を負わせているところなんかが書かれているらしい。また竹崎季長が敵の矢を受けたのにそれで命を落としたとかいう話がないことから、蒙古の弓には毒が塗ってあったというのも疑問だとする。

 さらに決定的なのは少なくとも文永の役については台風はなかったとしている。そこで番組ではこれを気象学の観点から解析。すると実際に文永の役が発生したのは11月であり、この時期の台風の襲来は考えにくい。ということから、少なくとも最初の文永の役では台風の襲来はなかったという結論を出している。では、蒙古はなぜ撤退したかなんだが、なぜか番組は最後までここのところはハッキリさせていない。

発掘された沈没船

 なおタイトルにもある沈没船だが、これは長崎の鷹島沖で発見されたもの。これは中国船だと考えられるという。文永の役の後、蒙古は南宋を下してその南宋軍を江南軍として弘安の役に参加させているのでその船なんだろう。この船を調査したところ、全長30mぐらいの大きな船だったという。なお特徴の一つとして碇の石を二つに分けて作ってあり、これは作りやすいだろうが耐久性に難があったのではと説明しているのだが、なぜかそれ以上のツッコミがない。普通はここで、つまり蒙古に動員を強引に要求された南宋では船の頭数を揃えるために手抜き作業を行っており、これが悪天候時の船の耐久性に影響したという結論に持っていくところなのだが、この番組ではなぜかそこのところはスルー。

 そして弘安の役なのだが、文永の役後に鎌倉幕府は北九州の沿岸に石を積み上げた防塁を建造させており(元寇防塁)、これを見た元軍は上陸の困難を悟って上陸を諦めたとしている。普通はこの後、そうやってモタモタしている内に台風が来てしまって被害が出たという説明になるのだが、なぜかこの番組ではそこの説明がない。

 結局は最後まで何やら説明が尻切れトンボの中途半端な状態になってしまった。なお最近よく言われている説は、まず文永の役では最初の蒙古の上陸作戦では日本軍はかなり手ひどくやられて太宰府まで撤退することになる。しかしその後に夜戦のゲリラ戦や、敵船に切り込む海賊戦法などで蒙古に被害を与えたので、蒙古は被害が拡大することを警戒して一旦引き上げる。そして日本に対しての脅しは十分に与えたとの判断でそのまま本国に引き上げたというものなのだが、番組ではここのところはスルーだったので、文永の役で蒙古が引き上げた理由は説明なしになってしまっていた。

 なんか万事が中途半端な内容であった。番組の構成やら論理展開が甘いとしか言いようがない。何やら腰砕け感が否めない。


忙しい方のための今回の要点

・元寇で日本が勝利できたのは台風の襲来によるというのが通説だったが、気象学の観点から見ると少なくとも最初の文永の役の時に台風が来ることはあり得ない。
・弘安の役では日本側は海岸に石塁を築いて待ち伏せており、その石塁のために蒙古は上陸することが出来なかった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・例え蒙古軍といえども、土地勘のない敵地の奥深くに入り込むと、地形を活かしたゲリラ戦で大被害が出ていた可能性があります。日本は実は伝統的にゲリラ戦の方が強い国だったりします。何しろこの後、あのゲリラ戦の達人・楠木正成が登場するわけですし。