教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

"実は千利休は切腹していなかった!?"(7/30 BSプレミアム 偉人たちの健康診断「利休切腹 ウワサの真相!?」から)

 織田信長、豊臣秀吉に仕え、茶の湯の体系を確立したとされている茶人・千利休。茶の世界のみならず政治の世界にまで大きな影響力を持ったとされる利休だが、最後は秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられたという。そんな利休の死の真相とは?

 

利休を天下一の目利きにした若き日の大失敗

 利休が世に出たのは50になってからとのことで、実はそれまで生涯はよく分かっていないという。ただ利休が天下一の茶人となったのには若い頃の大失敗が影響しているという。

 堺の商人だった利休は16才で茶の湯を学び始めた。当時の茶の湯は舶来の名器を集めて自慢するという色彩が濃く、茶会を開くにはそれなりの名器を揃える必要があった。利休も茶会を開きたいと思っていたが、そこにかける掛け軸を持っていなかった。そんな利休の元に中国の禅の高僧が書いたという墨跡が持ち込まれる。利休は願ってもないチャンスと考え、百二十貫(現在の価値で1200万円だそうな)を払ってこの墨跡を購入する。しかし知人にこれを披露するが、それが偽物であることを指摘される。まんまと欺された利休は惨めになって茶会を中止し、怒りのあまり墨跡を破り捨てたという。

 茶人として名を上げるには目利きの力も必要だったのである。これを養うために利休はそれから目にした名器の特徴を型紙に写し取って記していった。これこそが利休が編み出した目利き要請方法だったという。五感を動員することによって記憶が定着しやすいと言うことは現代医学でも証明されており、利休の記憶法は理に適っているという。この方法によって一流の目利きとなった利休の評判は高まり、やがては信長の耳にも入って50才の時に信長専属の茶人として召し抱えられることとなる。

 利休の成長のきっかけを伝えるエピソードだが、この時の経験が利休にとってはよほど痛かったのかなという気もする。と言うのも、その後の利休は舶来ものに負けない名品を日本でも作るという方向にも意を砕くようになるからである。舶来ものを珍重するだけだと所詮は権力者等には及ばないし、広がりがないとも考えたのだろう。

 なお五感を動員することが記憶に定着するというのは今では常識レベルで、ミスを防ぐためにそれを利用しているのがいわゆる視差呼称というもの。私も今でも車のキーなどを確認する時にこれをやることがあります。漫然と行っていると、鍵をかけたかどうかを忘れるので(実際にかけ忘れていたことも少なくない)。

 

「壁ドン」で家康を口説いた利休!?

 しかし本能寺の変で織田信長は命を落とす(この時に多くの名品が信長と運命を共にしたという話がある)。利休は信長の跡を継いで天下人になった秀吉に重用されることになる。ある日、庭一面に咲いた朝顔が美しいと秀吉を招いた利休だが、秀吉が来た時には朝顔はすべて刈り取られていた。憤った秀吉が茶室に入るとそこには一輪の朝顔が生けてあった。一輪だけ残すことでその美しさを際立たせたのだという。さらに「この一輪は秀吉様にございます」と利休は語ったという。大勢のライバルの中で秀吉が残ったということを表現したのだという(なんか媚び媚びの気がしますが)。利休の茶室は狭いのが特徴で、ここに利休の目指す新しい茶の姿があった。それは直心の交わりだという。

 この利休の目指す茶を秀吉が利用したことがあるという。小牧・長久手の戦いの後、家康との和平交渉のための会談の際に利休にその接待を命じたのだという。利休は2畳の狭い茶室で家康をもてなす。まずにじり口があるが、ここをくぐることで交渉に有利になると言っている。身体をかがめて頭を下げてはいることで警戒心を解く効果があるという。さらに身長180センチとも言われる大柄の利休と恰幅の良い家康がこの茶室に入ると身体が触れんばかりの距離である。この距離は互いのパーソナルスペースを浸食している状態であり、緊張を強いる状態だという。しかしこれが逆に好意につながる場合があるという。いわゆる吊り橋効果とのこと。さらに言えば「壁ドン」なんかもいきなりパーソナルスペースに入り込むことで恋愛感情に結びつくのだという。この利休のもてなしが響いたのか、家康は秀吉に臣従することを申し出る。

 と言うわけで、利休は壁ドンで家康を口説いたのだと言うことらしい(笑)。しかしそもそも狭い茶室内に身長180センチの利休の存在というのはかなりのプレッシャーのような気がする。好意とか言う以前に無言のプレッシャーはないんだろうか?

 

利休は実は切腹していない!?

 利休は茶人としてだけでなく、政治的にも重要性を増してきており、大名達も内々のことは利休に相談して秀吉に取り次いでもらうというほどの存在になっていたという。しかし利休の存在感が大きくなりすぎたためか、秀吉との間でトラブルが起こる。それが大徳寺山門事件。大徳寺の山門の上に利休の木造が設置されたのが不遜であるということで、利休は切腹を命じられた。享年70才・・・となっているのだが、これについて不可解な点があるという。利休が切腹した翌年の母への手紙には利休の茶を秀吉が飲んだという記述があるという。また利休の切腹を伝える資料は京都の北野天満宮の宮司が利休切腹の翌日に記した日記が元となっており、ここに「利休が御成敗となり(切腹のこと)、秀吉が首を切って木造と共に橋にさらした」とある。しかしこれ自体が彼が直接に見たものでなくて伝聞資料なのだという。実際に現場を見た者の記録として伊達政宗の家臣の鈴木新兵衛の記録では、利休の木造が磔にされているということは記してあるが、利休の首については記していないという。そして利休が切腹したとされる前日の西洞院時慶の日記には奈良で盗賊が捕らえられて京でさらし首になったとの記述があるという。つまりは磔にされたのは木造で、さらされていたのは盗賊の首だったのが、知らない前に利休が切腹して首がさらされたに変わってしまったのではないかとしている。

 ウワサの広まりやすさは重要性と曖昧さのかけ算になるという。つまりは重要な情報であるにもかかわらず、内容が曖昧なものほどウワサが広がるという。まさに現在のコロナに関するデマそのものである。この時は、利休の木造が磔になるという異常事態に戸惑った人々が憶測を飛ばしたのではという。では利休本人はどうなったかであるが、先ほどの鈴木新兵衛の報告書では利休は追放処分になって行方不明とあるという。また時慶の日記にも「逐電」とあるという。政権内に利休に対して反発する勢力も現れたことから、秀吉は利休を追放処分にしたのでは亡いかと推測されるという。

 ホンマかいなというところがあるが、ここで秀吉が利休を切腹させるというのはあまりに唐突だったので、切腹でなくて追放だったというのは、それまでの秀吉と利休のつながりを考えるとあり得る話ではあると思われる。大徳寺山門事件にしても、そもそも利休が自分の木造を設置させたのでなく、寺の側がやったことなので利休にとっては与り知らないこととも言える。それで本当に利休に切腹させたのなら、秀吉は既にかなり耄碌し始めていたとも言える。追放だったとしても、この後に利休が世間から完全に消え去ったのだったら、それが「死んだ」になるのは非常に自然である。番組ではポール・マッカートニー死亡説のウワサを上げていたが、日本でも「堀江淳死亡説」なんかがあった。また円広志なんかも関西人はテレビでしょっちゅう見ていたにも関わらず、関東では死亡説が出たことがあったとか(笑)。

 

 以上、千利休について。千利休が切腹したのかしなかったのかは分かりませんが、70才で追放されたのだったら、その後はひっそりと隠棲して過ごした可能性が高いでしょう。場合によっては完全に消息をくらまして隠者のごとくになった可能性もあるでしょう。実際問題として、利休が存命でその消息が分かっていたら、古田織部などの利休の高弟が何らかの動きを見せたと思われるのですが、そのような話は伝わっていません。

 なお茶の湯の世界は利休がいなくなったことで、それまで佗茶から織部などによる奇想色の強いものへと変遷をしていきます。私としては正直なところ利休の黒楽茶碗にも魅力を感じますが、織部の奇っ怪な器の方が面白いと感じるんですよね。もし利休が存命していたのだったら、そういう中央での変化を眺めながら自身は自らの佗茶を探求していたというところのような気がします。

 

忙しい方のための今回の要点

・利休は若い頃に墨跡の偽物に欺されたことがあり、その経験から目にした名物の特徴を型紙に記すことで目利きの能力を高めた。
・利休の目利きのウワサは信長にも伝わり、50才で信長の専属の茶人に抜擢される。
・信長の死後は秀吉に取り立てられる。秀吉は利休に家康との講和交渉の前の接待を命じており、そこで利休は狭い茶室の効果で家康の緊張を解いて信頼関係を結び、それが後に家康が秀吉に降るきっかけとなったとしている。
・晩年に利休は大徳寺山門事件によって秀吉から切腹を命じられたとされるが、同時代の資料には利休切腹の記録はなく、後に伝聞による憶測によって利休が切腹したことにされたのではとしている。当時の記録では利休は追放になったとの記録があるという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・千利休が一茶人を越えた存在になってしまったというのは事実のようで、実際に一時期は秀吉の弟の秀長と共に秀吉を支える存在になっていたようです。
・とにかく秀吉に対しても直言する人だったようですから、本当に秀吉が利休を切腹させたのなら、秀吉が天下を取って増長した証明となるし、秀吉が追放にとどめたのなら秀吉としては温情も含めた措置と言うことになる。これの真偽如何で当時の秀吉の心理状態なんかも推測できることになるのですが。