教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/28 BSプレミアム フランケンシュタインの誘惑「科学者 野口英世」

偉くなりたいという上昇志向の強かった野口英世

 細菌学の研究者として最前線で活躍して偉人として知られる野口英世であるが、実はその研究については今では多くは誤りであったことが分かっている。その野口英世の研究について。

 1876年、猪苗代町の貧しい農家に生まれた野口清作(後の野口英世)は1才半の時に囲炉裏に転落して左手に大やけどを負い、そのせいで左手が不自由になってしまったことから大きな劣等感を背負うことになる。16才の時に教師らが寄付を集めて手術を受けたことによりようやく左手でものを握れるようになったが、変形してしまっている手は完全には元の機能を取り戻すことは出来なかった。このことから野口は強烈な上昇志向を持つことになったという。

 猛勉強した野口は医術開業試験を1年で合格する。しかし左手の機能が十分でない自分は臨床医師としてはハンデがあると考えた野口は、当時最先端だった病原細菌学の研究者を目指すことにする。コッホやパスツールのようになりたいと考えていたのだという。

 

単身渡米して細菌学の研究者に

 野口は伝染病研究で名高い北里研究所に入所する。しかし学歴のない野口は助手補であったが、実際はその語学力で論文の翻訳などを行う図書係だったという。そんな時にアメリカの医療視察団が来日し、細菌学者サイモン・フレクスナーが伝染病研究所を訪れる。通訳の野口は細菌学の研究のためにアメリカに行きたいと自身をフレクスナーに必死に売り込む。これに対してフレクスナーは「応援する」と答えた。フレクスナーとしては一種の社交辞令だったんだろうが、野口はこの言葉を頼りに1900年に単身アメリカに渡る。野口に押しかけられたフレクスナーは戸惑ったが、野口に同情したフレクスナーは野口を雇う予算は大学になかったので、個人的に安い賃金で雇うことを野口に提案したという。

 1903年にフレクスナーが設立されたばかりのロックフェラー医学研究所の所長に就任したことで野口の運が開ける。野口の精力的な働きぶりを認めていたフレクスナーは野口のこの研究所に一等助手として引き入れる。

 

梅毒の病原菌の純粋培養で名を上げるが

 そして野口が研究に挑んだのが梅毒の純粋培養である。ワクチンや治療薬の開発には必須なんだが、まだ誰も成功していなかったという。野口は梅毒の病原菌を兎の睾丸に入れて他の菌を死滅されることを繰り返すことで梅毒の細菌の純粋培養に成功したと発表した。これは実に忍耐が必要な研究であったという。そしてこの研究が世界中で賞賛されて細菌学の魔術師と讃えられることになる。しかし野口の追試を行った研究者に成功者はいなかったという。そして2年後、野口は梅毒の診断方法についての論文を発表する。さらに1年後には進行麻痺は梅毒によるものであることを発表、これで世界的な名声を手にする。

 しかし今日では野口の梅毒の細菌の純粋培養が本当に成功だったかには疑問が持たれているという。細菌の培養に菌株の特徴などによる偶然性もあるので失敗であった断定は出来ないが、この方法では実際はかなり困難というのは明らかになっていると言う。まあ梅毒の診断方法については明らかに間違いなのは判明しており、今日で正当であると評価されているのは進行麻痺の論文だけだとか。

 

狂犬病の研究についても疑問が

 次に野口が研究に挑んだのは狂犬病だった。野口は狂犬病に感染した兎などの血液を調べて病原体を発見したとフレクスナーに報告した。そして「結果は明白であり、誰か他の人間も研究しているかもしれないので結果を早く報告させて欲しい」とフレクスナーに訴える。しかしフレクスナーは野口の結論に疑問を抱いて、伝染病研究の第一人者であるハーバード大学のセオボールド・スミスにも意見を聞くように命じる。スミスは野口の論文に対し「これが狂犬病の病原体かは判断しかねる。もっと実験を続けて結果を明確にすべき。」と答えたのだが、野口はフレクスナーに「彼にとってはあまりに新しく先鋭的でそれ以上のことは言えなかったのだ」と伝え、この研究段階で発表しても何も問題はないと主張した。フレクスナーは野口のごり押しに負けて発表を許すが、発表後に再検証することを約束させた。この論文は社会に絶賛されるのだが、結局野口はフレクスナーとの約束は守らず、二度と狂犬病を研究することはなかったという。なお現在の研究では狂犬病の病原体は細菌ではなくウイルスであることが確定しており、野口の研究は間違っていたことが証明されている。

 1914年、野口はロックフェラー医学研究所の最高幹部の一人である正研究員に昇進して、ノーベル賞候補にも挙がった。そして帰国した野口は歓待された。幼い頃の絶対に偉くなると言う望みが果たされたのである。

 

黄熱病の病原菌を発見したと発表するが

 そして野口はエクアドルで流行していた黄熱病の研究に取り組む。蚊が媒介することは分かっていたが、未だに病原菌は見つからずにワクチンは開発されていなかった。もしこれに成功したら名声は不動のものとなるのは確実だった。

 野口は黄熱病と似た症状を示し、自身が研究していたワイル病と同じ種類の細菌が原因と考えていた。しかしこの時に蚊を絶滅することで感染拡大を防ぐというプロジェクトが実行されていたため、野口は先を越されないようにと焦っていた。そして野口が調べている血液が必ずしも黄熱病の患者のものとは限らないという忠告を無視して研究を続け、1ヶ月後に病原体を特定したと報告する。ある細菌を発見し、これをモルモットに注射したところ黄熱病の症状を示したというのである。しかし実は黄熱病を蚊が媒介することを発見した研究チームの報告では、黄熱病は人間以外には感染しないことが確認されていたという。野口が発見した病原菌は黄熱病のものでなく、ワイル病のものである可能性があったという。野口はフレクスナーへの報告書に「細菌の抗体を接種する実験を行った」と記している。この時に用いたのはワイル病の抗体であり、これを使用したらモルモットは発症しなかったという。この時点で野口が発見したのはワイル病の病原体である可能性が浮上したのだが、野口はその可能性を検討していないという。どうも自分に都合の良い結果に飛びついた傾向が見られるという。

 そして1919年、黄熱病の病原体を発見したと発表するが、ワイル病の抗体に反応したことには触れなかった。野口の報告に世界中が賞賛をよせ、野口はその病原体を元にワクチンを製造、エクアドルに送ったのだが、その時点で蚊の撲滅のプロジェクトが成功しており、野口のワクチンの効果は確認されなかったという。

 

研究に疑問が突きつけられる中、アフリカに渡るが

 しかし1926年に野口の論文を批判する論文が発表される。ハーバード大学で感染症を研究するマックス・タイラーらの論文だった。彼らは野口の発見した病原体にワイル病の抗体を反応させる実験を実施、さらにワイル病に感染したモルモットに野口の発見した病原体の抗体を接種、どちらの場合も発症が抑えられるという結果が出た。この結果から、野口の発見した病原体がワイル病のものである可能性が限りなく高くなったことを示した。この年にロックフェラー財団は野口ワクチンの使用を中止した。ちなみに現在では黄熱病の病原体はウイルスであることが判明しており、野口の発見は誤りであったことが確定している。

 1927年、野口は自ら黄熱病が広がるアフリカに渡る。自らが開発したワクチンを接種して望んだという。壮行会では「自分の正しさを証明してみせる」と大見得を切ったらしいが、実際は効果のないワクチンを接種して感染拡大の渦中に飛びこむのは死にに行くようなものであることは分かっていたのではないかとする。しかしプライドの高い彼にとっては、自らが間違っていたと認めることは出来なかったのだろうという。そしてガーナで研究を開始した野口は4ヶ月後に病原体を発見したとの報をフレクスナーに送るが、その後黄熱病に感染して倒れる。病床の野口は「これで終わり、そうであってほしい」と呟いたと言われている。これが何を意味しているのかは謎であるが、これで言い訳を続ける必要がないという開放感ではないかととの解釈もある。こうして野口英世は1928年に51才の生涯を閉じる。

 なお野口の論文を否定したマックス・タイラーは後に黄熱病のウイルスを発見し、そのワクチンを開発してノーベル賞を受賞したという。後に野口の件でタイラーに取材した時、彼は「もう安らかに眠らせて上げましょう。あれはまさしく野口の心の問題です。」と答えたという。

 

 野口英世は強烈な上昇志向と自己顕示欲で研究に取り組んだのであるが、非常に勤勉に研究を行っていたのは事実である。しかし意図的に結果を捏造したわけではないのだが、明らかにその研究には思い込みの強さのためによる飛躍や都合の良い取捨選択があり、それが結果として研究報告を誤ってしまったということになる。まあ信念が強すぎる研究者が陥りやすい大失敗である。彼の場合、今まで積み上げた名声を失いたくないという意識が強すぎたんだろう。番組ゲストも言っていたが、少なくとも最後の黄熱病については野口自身も「自分は間違っていた」ということは感じていただろうと思う。それにも関わらずそれを認められなかったのは、まさに野口の心の問題である。

 とはいえ、これは何も野口の固有の問題でなく、研究者なら誰でも陥りやすい失敗である。やはり研究者たるもの自分が立てた仮説が正しそうであることを示すデータが出ればうれしいし、仮説に反するデータが出た時にはまずはそれを疑う。そしてその結果として仮説そのものを否定された時には苦痛も伴う。しかしそれを繰り返して科学たるものは進化するのである。しかしそれが結果を焦らされ、さらには間違いを立場上認めるわけにも行かないというプレッシャーをかけられると、都合の悪い結果はあえて見ないふりをするという誘惑に駆られるのはある意味普通にある状況である。

 最近はそこからさらに一歩踏み込んで、最初からデータを捏造する輩まで登場していてこの世界の大問題となっている。その理由を調べると、単純な名誉欲だけでなく、資金を打ち切られないためになどのかなり切迫した事情もあったりする。結局はあらゆる研究者がそういう状況と自身の良心の狭間で葛藤しているわけでもある。

 「野口英世は医学史の人でなく、物語の人だった」とか「研究者としては一流ではなく平均的だった」なんて話も出ていたが、非常にシビアな話ではあるがそれが事実なんだろう。ちなみに森鴎外も軍医として脚気の理由について栄養説を否定し続けたせいで陸軍の脚気対策が遅れてしまったなんてことも言われていたりする。

 で、現代であるが、政権に都合の悪いことをいう学者は干すという姿勢を露骨に示している政権の下で、保身のために忖度して事実をねじ曲げている学者もいそうである。この時期にあえて野口の話を出すというのは、NHKの現場にとって最大限可能な範囲でのそういう状況に対する風刺などではないかと私は読むのだが(露骨に政府を批判するような放送をすれば飛ばされますから)。

 

忙しい方のための今回の要点

・貧しい農家の出で、左手に障害を持っていた劣等感もあり、偉くなりたいという強烈な上昇意欲の持ち主であった。
・わずかなツテを頼りに渡米してフレクスナーの元で働くこととなった野口は、フレクスナーがロックフェラー医学研究所の所長となったことで研究員として引っ張られる。
・そこで野口は梅毒の病原菌の純粋培養に成功したと論文発表して一躍世界中に有名となる。しかし今日ではこの野口の方法は実際には困難であることが分かっており、野口の成功には疑問が持たれている。
・次に今度は狂犬病の病原菌発見の論文を発表して世界中で評価されるが、これについても現在では実はウイルスによるものであることが分かっている。
・そして黄熱病の研究に取りかかって病原菌発見の発表をする。これは野口の名声を世界広げるが、実は野口の発見した最近はワイル病のものであり、黄熱病はウイルスで感染するものだった。
・後に野口の研究は別の研究者によって否定され、野口は自身のプライドをかけてアフリカに渡って黄熱病の研究に取り組むが、結果は黄熱病に感染して亡くなってしまう。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ「真面目に熱心に取り組めば必ず成功する」とは限らないのが研究者ですから。不真面目でいい加減なのに成功したという例をほとんど聞かないのは間違いないですが、熱心に真面目にやったけど最後まで成功できなかったと言う例は枚挙に暇がないです。実際は成功した人は、真面目に熱心に取り組んだ挙げ句に運をつかんだって人です。
・エジソンは「天才とは99%の努力と1%のひらめき」と言いましたが、この言葉について日本人は特に「努力しないと天才になれない」という意味に解釈しますが、実はこの言葉は、努力だけしても最後の1%のひらめきがないと駄目という意味だとか。なおその1%のひらめきで天才になれますが、その天才もさらに運がないと社会的には成功しない。