良心の医師の裏の顔
自閉症とされる子供たちの中に、高度な知能を持ち特異な才能を示す者がいることを見つけて発表したのがドイツの小児科医のハンス・アスペルガー。後にそのような発達障害はアスペルガー症候群と呼ばれるようになったが、彼はそのような子供たちに教育を施す必要性を訴え、良心の医師とも言われていた。しかしその後、実は彼はナチスによる障害者の大量虐殺に荷担していたことが判明した。そのようなアスペルガーの二面性について紹介している。
自閉症の3つの特徴とされてきたのは、1.対人関係の障害 2.パターン化された興味や活動 3.言語・知能の発達の遅れ があるのであるが、アスペルガー症候群とはこの3つめが存在しない発達障害である。歴史的に見てもモーツァルトやニュートン、さらにアインシュタインなどがこれであったとされている。他人に興味がないせいで対人関係で困難を来すが、知能が高くて独創的分野で成功する者も多いという。
小児科医として自閉症児童の教育に携わったアスペルガー
このアスペルガー症候群の名の由来となっているのが、ハンス・アスペルガー。自閉症研究のパイオニアである小児科医である。彼は1906年にウィーンに生まれ、躾けに厳しかった父の要求で優秀な成績を取っていたという。ウィーン大学医学部に入学したアスペルガーだが、その時に世界大恐慌が発生して町は失業者に溢れる状態となり、彼も就職先が見つからない状態になってしまう。その時にウィーン大学小児病院院長のフランツ・ハンブルガーが彼をスタッフとして雇ってくれる。これ以来、アスペルガーはハンブルガーを仰いで忠誠を尽くすことになる。
1932年に彼は小児病院内の「治療医教育診療所」に配属される。そこでは社会適応に難のある発達障害の子供たちが送られてきていた。そこはそれまでの彼らを患者としてベッドに縛り付ける診療所と違い、子供たちを自由に遊ばせて観察しながら彼らに最適な教育法を探すという非常に先端的な診療所であったという。
アスペルガーはその中でオリジナルの計算式を編み出した少年、独特な言語の感覚のある少年、毒薬に対して異常な関心を示す少年など、学校は手に負えないと判断したが特異な才能を持つ子供たちを見つけた。彼は10年間で200人の子供たちを診療したが、その中には大学に進学してニュートンの本の誤りを立証した者までいたという。そして1944年に彼は観察記録をまとめた論文を発表する。これはそれまでの自閉症の概念を覆すものであった。論文の最後には「医師には全身全霊をかけて、これらの子供たちに代わって声を上げる権利と義務がある。ひたむきに愛情を捧げる教育者だけが困難を抱える人間に成功をもたらすことができる。」と記してある。
その一方でナチスの安楽死作戦に関与する
しかしそのアスペルガーがナチスの障害児の安楽死作戦に関与していたのである。アスペルガーが診療所に配属された1年後にドイツでヒトラー率いるナチスが政権を握る。そしてハンブルガーがナチスに入党し、アスペルガーはその指示でドイツで研修を受けることになったのだという。ナチスは優生学に基づいて障害者の断種など実行していた。アスペルガーはこの全体主義のドイツを「厳しい鍛錬や規律を伴い、ものすごい力を秘めている」と肯定的に評価している。
ウィーンに戻ったアスペルガーはハンブルガーによって院長に起用される。ハンブルガーは自分の意向に従わない医師の排除を始めていたという。そして1938年にナチスがオーストリアに侵攻し、ウィーン大学もナチスに従うことになる。アスペルガーはナチスに関係の深い団体に次々と入党し、ナチスを礼讃する。そして自閉的な子供たちを教育し、ナチスに貢献させようと高らかに謳い上げる。ここで「役に立つ」子供たちだけを注視するようになる。
ポーランドに侵攻したヒトラーは断種作戦をさらに進めて、安楽死作戦を実行する。障害者の命を奪うことにしたのである。対象は子供に及び、ウィーンのシュピーゲルグルント児童養護施設がその舞台となった。市内の医療機関で教育不可能と診断された子供たちはそこに送り込まれ毒殺された。彼らはいずれも死因は肺炎とされた。
2010年に見つかった資料により、アスペルガーはこの政策に積極的に関与していたことが判明している。彼は自分の施設から9人を「教育不可能」としてシュピーゲルフロントに送っており、さらに別の精神科病院の顧問として35人をシュピーゲルフロントに送っているという。彼は判明しているだけで44人の子供を送り、37人が殺害されている。実際には記録が残っていないだけでもっと多くに関与していると考えられるという。またアスペルガーがシュピーゲルフロントの実態を知らないということはおよそ考えられないという。彼は間接的に殺人に関与していたのである。
戦後になって再評価された後にナチスとの関与が判明する
戦後、ナチス関係者が処罰される中で多くの医師は「ヒトラーの命令だった」として無罪を勝ち取る。アスペルガーも罪を問われることはなかった。その後の彼はウィーン大学小児病院の院長としてキャリアを重ね、終身院長にまで登りつめるが、その後自閉症児童の研究を続けることはなかったという。1974年にラジオインタビューに登場したアスペルガーは、ナチス時代を振り返って「ナチスの非人道的なことを受け入れられなかった」とし、「子供たちを引き渡すことを拒んだ」と語っているという。しかし1人の子供も申告しなかったというのは嘘であるということが後に文書で分かっている。彼は1980年に74歳で亡くなっている。最後まで真相は語らなかった。このような全否定はナチスの協力者などによくあることであるという。
1981年にアスペルガーの名が脚光浴びることになったのは、イギリスの精神科医であるローナ・ウィングが「アスペルガー症候群:その臨床報告」という論文を発表したことによるという。彼女は自閉症の子供たちの中に言葉や知能の遅れが見られない子供たちがいることに気づき、調べたところアスペルガーの論文に行き当たったのだという。そして彼に敬意を払ってこのような子供たちをアスペルガー症候群と命名した。それまでアスペルガーの論文は英語圏ではほぼ注目されていなかったのだが、これでアスペルガー自身が注目されるようになったのだという。しかし2000年に安楽死作戦で殺された子供たちの脳を標本にして医学実験に利用していた医師の裁判が行われ、その調査の過程で少なくとも789人の子供たちが殺されていたことが分かったという。そして2010年には精神科医達が安楽死作戦の提案者だったことをドイツ精神医学精神療法神経学会が初めて認める。そして同年にアスペルガーのナチス時代の文書がウィーン公文書館で発見されたのだという。
以上、精神医学者アスペルガーの光と影であった。自閉症児童の教育に光を見出した一方で、それに値しないと判断した子供たちは容赦なく切り捨てて安楽死施設に送り込んでいたアスペルガーは矛盾した二面性を持っていたようにも感じられるが、それが彼の中でどのように両立していたのかは理解しにくいところがある。
もっとも医師が常に人格者というわけではなく、現在のコロナ禍においても医師クラスタと呼ばれる一部の医師が、政府のPCR抑制の方針に迎合して無責任なデマを振りまいたことは今では知られている。また医師の中にも救いがたいレベルの差別主義者も存在するものである。そういうことを考えると、アスペルガーがナチスに傾倒していったこともあり得ることであり、結局は彼自身の考えをナチスに迎合させていったんだろうということが想像出来るところでもある。
恐らく戦後には一片のやましさは抱えていたのだろう。だから自閉症児童の研究には関与しなくなり、自身のナチスへの関与の事実さえも恐らく既に自身の記憶さえ改竄していた可能性がある。
なお現在は病名に個人名をつけないという流れもあり、アスペルガー症候群は医学的には自閉症スペクトラムと呼ばれるようになっているとか。これは別にアスペルガーの評価に連動したものではないとのこと。
忙しい方のための今回の要点
・小児科医であったアスペルガーは自閉症と診断された子供の中に言語や知能の後れがなく、特異な才能を示すこともある子供が含まれることに気づいた。
・彼がそれを報告した論文の中で、そのような子供に愛情を持って教育をする必要性を訴えている。
・その一方で、ナチスに傾倒した彼は、ナチスによる障害者安楽死計画に積極的関与していたことが2010年に発見された公文書で証明された。彼は少なくとも44人の子供を「教育不可能」として安楽死施設に送り、37人が殺害されている。
・戦後、彼は他の多くの医師と共に免罪され、戦後は順調にキャリアを重ねて終身院長にまで登り詰めたが、戦後に自閉症児童について研究することはなかったという。
・彼の死後、イギリスの精神科医のローナ・ウィングがアスペルガーと同様の子供たちを見つけ、論文でアスペルガー症候群と名付けたことでアスペルガーに注目が集まり、彼は子供たちの可能性を見つけた良心の医師とされる。
・しかし2010年、ナチスによる安楽死計画の調査の過程で彼が計画に携わっていたことを示す公的文書が発見される。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・一面では良心を持ち、もう一面では悪魔のような非道さを示す。人間にはそう言うところもあります。アスペルガーもそうだったということですが、ナチスという狂気の組織は人間のそういう裏面をもあぶり出す組織だった気がします。ヒトラーにしても一皮むくと神経質な小心者という側面がありましたからね。