教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

6/24 BSプレミアム フランケンシュタインの誘惑「脳を切る 悪魔の手術ロボトミー」

禁断の手術・ロボトミー

 治療困難な精神疾患を脳に対する外科的手術で治療するとしたロボトミー。一時世界的にもてはやされたが、その後重篤な副作用の多発などで医学会のタブーとなってしまった感のある悪魔の手術とも言える手法である。このロボトミーがどのように生まれて、どのように消えていったのか。

 激烈型うつ病の患者の脳に対して外科的手術を施し、それれまで激しい衝動で手に負えなかった患者が退院が可能になるようになったという劇的な効果を上げた手術例が、ウォルター・フリーマンによるロボトミー手術の最初だという。彼はその後、数千人の脳を切ることになる。

 

精神病の治療法として外科手術に着目する

 彼は1895年に医者一族の長男として生まれた。彼の祖父はウィリアム・キーンで、世界で初めて脳腫瘍の摘出に成功した高名な外科医でルーズベルトの主治医も務めたという。フリーマンは彼に憧れて医学の道を志した。そして祖父に負けない名声を獲得したいという考えがあった。エール大学を優秀な成績で卒業して医学校に進んだ彼は、精神医学を専門に選ぶ。そして1924年、28才の若さで祖父の肝煎りもあってアメリカ最大の精神病院の研究所長に大抜擢される。当時治療法のほとんどなかった精神医学に対して、フリーマンは治療法を求めて亡くなった精神疾患患者の脳の解剖に明け暮れた。しかし脳の損傷などは見つけられなかった。

 1935年にロンドンで開催された国際神経学会が彼の転機となる。そこでチンパンジーの脳を一部を切り取ると凶暴性がおさまるという発表がなされた。これに対して「これを応用したら人間を救えるのではないか」と質問を投げかけたのがポルトガルの神経科医エガス・モニスだった。翌年、彼は精神病患者20人の脳の一部を切ったと発表する。脳の外科的治療で精神疾患を治療する精神外科の始まりであった。モニスは感情や理性を司る前頭葉から視床へ過剰な神経伝達が行われると不安や強迫観念による問題行動が発生すると考え、その回路を切断することを試みたのである。その結果、35%の患者が治癒し、35%の患者が改善したと報告している。フリーマンはこの結果に飛びつく。

 道具をヨーロッパから取り寄せるとフリーマンは1936年9月には手術を始める。4ヶ月間で6人の重篤な患者に手術を施して3人が退院、この手術にロボトミーと名付けた。フリーマンはマスメディアを有効に活用し、新聞には賞賛の文字が並んだ。有名になった彼の元には患者が押しかけ、その中にはケネディの妹であるローズマリーもいた。彼女は家族から知的障害を心配されてロボトミーを受けさせられた。フリーマンの元には患者や家族からの感謝のクリスマスカードも多く届いた。

 

患者の急増に合わせて簡便な手術法を開発

 第二次大戦が終わると、戦争によって多くの精神疾患の患者が出た。フリーマンはロボトミー普及のチャンスと考え、もっと手軽にロボトミー手術を行う方法を模索する。その結果、1946年に電気ショックで昏睡状態にした患者の目の裏側の頭蓋骨の一番薄い部分にアイスピックを刺して脳の神経組織を掻き切るという改良型ロボトミーを発表する。10分ぐらいの簡単な手術で、外科医も麻酔科医も手術室も必要なく、一般的な精神科医でも行うことが出来た。この方法に患者であふれかえっていた公立病院が飛びつく。フリーマンは自らハンドルを握って全国を回ってロボトミーの紹介を続けた。

 ロボトミーは世界に広がった。日本でも行われたという。フリーマンはこれで祖父に並ぶ功績を挙げたと考えた。しかしロボトミー手術による深刻な副作用が問題となり始める。中には頭痛治療のために受けたロボトミーによって何も出来ない状態になってしまった女性などもいたという。しかしフリーマンによると頭痛は治まったので成功だったというのである。またローズマリーも重い副作用で施設に入ってそこで余生を送ることになる。1954年に抗精神病薬であるクロルプロマジンが認可されると、ロボトミーと同様の効果が得られると年間200万人が服用するようになる。

 

ロボトミーの対象を広げた結果、社会的問題となる

 一方のフリーマンはロボトミー手術の対象を広げていった。最初は重篤な患者にしか適用しなかったロボトミーを初期治療にまで適用するようになった。中には母の再婚相手と折り合いが悪くて暴力的行為があるとされた少年がロボトミーを受けさせられた例まであるという。フリーマンはこの成果を発表したが、これは囂々たる非難に晒されたが、フリーマンは激怒したという。ちなみにその少年はまだ健在らしいが、手術後は精神的に弱くなり意欲の低下もあり、養護施設を転々としてホームレスにまで落ちたことがあるとか。広がってしまったロボトミーは犯罪者や同性愛者にまで施されるようになってしまう。その実態は小説「カッコウの巣の上で」で発表され世界中に知れ渡った。

 しかしこのような脳手術が皮肉にも脳の機能の解明に貢献する例もあった。ロボトミーで海馬を切除された男性が、知能や過去の記憶には変化がなかったにも関わらず、最近の記憶を残すことができなくなったことから、海馬が短期記憶の形成に働いていることが解明された。彼の脳は遺言でサンディエゴ大学で保管されているという。

 カリフォルニア州バークレーのヘリック記念病院は1960年代にフリーマンの手術を唯一許可していた病院である。しかし1967年2月、ロボトミー手術を受けた患者が死亡、病院は許可を取り消し、これでフリーマンのロボトミーは終焉を迎える。フリーマンがこの世を去ったのはその5年後だという。晩年のフリーマンは自らハンドルを握ってかつての患者達の元を回ったという。皮肉なことに晩年のフリーマンはかつての患者達に自らの救いを求めようとしていたのである。自らの行ったことは間違っていなかったと確信したかったのだろうという。

 

 フリーマンのロボトミーに元ネタがあったというのは初めて知った。しかしモニスの手術にはまだ科学的理論があったが、フリーマンの手術は雑すぎて呆れる。しかもアイスピックを使っての手術なると、最早脳のどこかを手術するではなく、脳をかき回すことだけが目的ではないかと考えざるを得ないひどさである。強烈な副作用が出たのは当たり前である。むしろ、それでよく死ななかったもんだ。

 フリーマンも最初は多分使命感からの研究だったんだろうが、名声を得たことによって途中から引き返せなくなり、その後の姿勢は科学者ではなく、単なるロボトミー教の狂信者に堕してしまっていたと感じられる。治療結果の恣意的すぎる解釈なども最早研究者としての姿勢ではなく、明らかに宗教的奇跡を信じる狂信者の姿勢である。肥大化しすぎた功名心に支配されてしまっていたのだろうか。むしろこの時のフリーマンの脳内こそが興味深い。

 脳外科が難しいのは、脳の機能がまだ完全には解明されていないことである。例えばてんかんなどでも、てんかん波の発生源は分かっても、単純にそこをつぶしてしまえば良いのかとの判断は出来ない。下手したら生存に関わる機能を損ねてしまう恐れもあるからである。そのために脳にメスを入れると言うことは極めて慎重な判断を要求されることになる。それを考えてもフリーマンのやり方はあまりに雑に過ぎるのである。

 

忙しい方のための今回の要点

・治療の困難な精神病患者の治療法として、フリーマンは脳にメスを入れることを思いつき、実際に重度の精神病の6人の患者に試してみたところ、3人が退院することが出来た。
・この結果をフリーマンはマスコミに発表し、彼は一躍時の人となって彼の元には治療を希望する患者や家族が殺到することになる。
・戦後、戦争の影響で精神病患者が激増する中、フリーマンはより簡便にアイスピック一本で出来る改良型ロボトミーを発表、ロボトミーは全国に広がっていく。
・しかしその一方でロボトミー手術による重篤な副作用も報告されるようになる。中には頭痛の治療のためにロボトミーを受けたところ、何も出来なくなった女性もいた。
・向精神薬が認可されたことなどから、ロボトミーに疑問が出てくる中でフリーマンはロボトミーの対象者を従来の重度な精神障害から初期や子供にまで拡大していく。しかし子供に対して手術を行ったことで批判を受ける。
・やがて犯罪者や同性愛者にまでロボトミー手術が行われるようになっていた非人道的な現実が「カッコウの巣の上」で発表され、ロボトミーの実態が知れ渡るようになる。
・1967年2月、フリーマンの手術を許可していた最後の病院が、患者の死亡で許可を取り消し、これでロボトミーは完全に終焉を迎える。フリーマンがこの世を去ったのはその5年後である。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・晩年のあくまでロボトミーに固執するフリーマンの姿は悲しくもありますね。もう既に彼自身が患者だったのではという気がしてなりません。医師一家に生まれ、偉大な祖父に追いつきたいというプレッシャーがかなりあったのでしょう。どうもフリーマンの生涯自体が精神医学の一つの対象事例のような気がしてならない。