教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/26 BS-テレ東 信長・信玄・謙信!戦国三代武将の経済学

経済の観点から戦国時代を考える

 年末歴史特番と言うことで、信長・信玄・謙信の強さについて経済的側面から分析しようという内容のようである。なおどことなく番組の雰囲気が「にっぽん!歴史鑑定」に似ているから、あれの特番かと思っていたが、よくよく確認すると放送局が違っていた。まあもっとも、この手の番組は局関係なしに同じ制作会社が下請けしている可能性もあるが、そんなことはどうでも良いことではある。

 まずは信長についてだが、信長と言えば今川義元を討ち取った桶狭間の奇襲であるが、実はこれは奇襲などではなくて正面から渡り合った結果ではないかと言っている。その根拠としているのは、尾張の織田領は確かに面積的には今川領よりもはるかに小さいが、実際には織田家は強力な経済力を有した裕福な家であったということである。

 

 

実は信長は義元と同レベルの兵を揃えていた?

 その経済力の源泉は、まず熱田神宮の門前町であった熱田だが、東海道の宿場町でもあり桑名まで渡し船も出ていた交通の要衝でもあり、そもそもかなり商業が発展した地であったという。さらには長良川河口の港町であった津島湊。尾張随一の港であり、非常に強力な財力を有していたという。この港町からの収益だけで年間50億円の収入があったのではとしている。さらに知多半島には全国に販売されていた常滑焼という名産品も存在した。常滑の領主からクジラを送ってもらった信長の礼状が残っており、クジラを捕れるというのはかなりの力を有していないと無理だという。知田半島はさらに海上交通の要衝であるからその利益も莫大なものであったという。さらには今川の侵攻の目的は上洛ではなく、これらの地を織田から奪うことにあったとする。

 これらを考慮して計算した尾張の経済力は78万石であり、1万石辺り250人の兵を動員できるという試算があることから、尾張には経済的には2万人弱を動員できる力があるということになるという。これに対して今川は94万石となり、動員可能数は織田19500人に対して今川23500人と差はほとんどなくなるという。さらに今川は国元に4000人は守備に残したであろうから、そうなると織田と今川は対等の軍勢による真っ向勝負だったのだという。

 とのことだが、これはあくまで「それだけの兵を運用できる経済力がある」というだけであり、実際にそれだけが動員できるとは限らない。当時の兵はほとんどが農民であったから、領内の農民をどれだけ動員できるかだが、商工業中心の尾張では領内だけではそれだけの兵を調達できなかった可能性はある。もっともかつて言われていた圧倒的な大国今川対小国織田という図式ではないというのは現在の通説ではある。今川2万5千対織田3千というのは、多分ふかしすぎではあるだろう。

 

 

甲斐を豊かにしようとした信玄

 次に信玄であるが、甲府盆地の甲斐は決して豊かな地ではなかったので、信玄は国を富ませるのに力を割いている。まず最初に力を入れたのが金山開発であり、産出した金を家臣への恩賞に使うなどして人心掌握に努めている。また税制においては田んぼにかける段銭は不安定であることから、家屋にかける棟別銭のみを課し、これを確実に徴収するために村ごとの連帯責任にして、相互監視による逃亡などを防いだという。その一方で収穫を安定させるために、洪水を頻発させていた釜無川に20年がかりで信玄堤と呼ばれる堤防を建設して洪水を阻止する事業を行っている。なおこの堤防は現在でも機能しており、非常に優れた治水工事であるという。

 

 

軍神・謙信を支えた金庫番

 さてその好敵手たる謙信であるが、謙信が亡くなったときには春日山城には27億円に当たる貯えがあったという。無敵の軍神を支えたこの経済力は謙信の家臣である蔵田五郎左衛門という人物が生み出したものだという。彼は当時の重要繊維である青苧の取引によって収益を上げたという。さらに直江津港及び柏崎港に青苧の買い付けにやって来た船に対して入港税を徴収し、さらに関所では青苧の輸出関税を課したという。これらの経済効果は現在の価値で50億円以上になるという。さらに金山、銀山の開発にも力を入れている。

 なお蔵田五郎左衛門は謙信が出陣した際の春日山城の留守居役まで命じられるほど謙信の信頼を得ていたという(後方担当の官僚が本拠の留守居役をするというのは、イゼルローン要塞司令だったキャゼルヌのようだな)。なお謙信が甲斐に塩を送った際にも、それを担当したのは五郎左衛門であったという。彼の存在があったからこそ、謙信は前線で戦いにだけ集中することが出来たのだという。

 信玄と謙信が正面から衝突したのが川中島であるが、この合戦の意味はこの地域は善光寺平であり生産力の高い豊かな農地であったので、それを巡った争いであるという。さらにはこの地の善光寺も争いの焦点であり、全国から多くの参拝者の集まる善光寺周辺はかなり賑わっていて経済的にも豊かであった。そのため、信玄は善光寺を丸ごと甲斐に移すということまで実行している。さらには信玄には、その善光寺平のさらに先にある直江津港を獲得することも視野に納めていたと考えられるという。

 

 

比叡山焼き討ちは信長の経済戦略のため

 最後は信長による比叡山焼き討ちの理由であるが、これについては比叡山が浅井・朝倉に協力していたから、信長が無神論者であったから、当時の比叡山がかなり堕落していたからなど様々言われているが、この番組では比叡山が有していた経済力が目的であったとしている。当時の比叡山は京への物資の輸送ルートであるびわ湖の水運を一手に支配しており、さらには多くの荘園からの収益も上げており、金融業にも手を出しており、海外との交易にまで出資していたという。このような巨大な財力を持つ比叡山に対し、京の経済を支配しようとしていた信長は実力行使に及んだのだとする。

 なお死期を悟った信玄が無謀とも言えるような西進作戦を実行するが、これは京都周辺の海外からの交易ルートを信長が押さえてしまったことで、信玄は鉄砲に必需の鉛や硝石の入手が困難となり、ジリ貧となることを恐れて無理を承知でも信長をつぶしに動かざるを得なかったのだとする。

 

 

 以上、経済の観点から見た三人の話ですが、正直なところ蔵田五郎左衛門以外は取り立てて目新しい話はなかったような・・・。なお番組では3人の勝負飯として、信玄の煮貝にほうとう、謙信のかちどき飯、信長の湯漬けなどを紹介していたが、まあこれはどうでも良い内容である。ちなみに信玄の勝負飯の紹介で甲府の「銀座江戸屋」が登場するが、ここは私が甲府に行った時には必ず立ち寄る郷土料理の名店である。アワビの煮貝は目が飛び出るぐらい高いが、涙が出るほど美味かったことも覚えている。

 番組最初に当時は合戦一回につき3億円程度の費用が必要だったと試算しているが、戦争というものが金がかかるものであるのは今も昔も変わらない。現代は高価な兵器が戦場に投入されることから、さらに多額の費用がかかるようになっている。そして大きな金が動くところには当然のように利権が生まれるわけであり、だからこそ未だに戦争を望むような輩が現れるのである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・信長の桶狭間の合戦は、圧倒的に不利な中による奇襲攻撃とされているが、経済の観点から見ると話が変わってくると言う。
・当時の織田氏は商業の盛んな熱田、流通拠点の津島湊、名産品があり水運の中心であった知田半島などを領有し、経済的にはかなり裕福であった。また今川の侵攻の目的もこれらの地を手に入れることであった。
・これらの経済力も加味した上で織田氏と今川氏の動員可能兵力を算定するとほぼ互角であり、実は両者は互角の兵力で正面からぶつかったのではとしている。
・信玄は決して豊かではなかった盆地の甲斐を豊かな国にするために、金山の開発に力を入れ、さらに税収を安定化させるために棟別銭の徴収を強化した。その一方で農業生産力向上のために治水工事として信玄堤を建設した。なおこの堤防は今日でも機能している。
・謙信はかなり豊かな資金力を有していたが、それは彼が財政を託した蔵田郷左衛門の手腕によるものであることが分かった。
・五郎左衛門は衣料の繊維となる青苧を越後の名産として収益を上げ、さらに直江津港や柏崎港に交易に訪れる船から入港税を、関所では青苧の輸出関税を課すことで、現在の価値で50億円に及ぶ収益を上げている。
・川中島の合戦は、豊かな農地である善光寺平を巡る争いであると共に、多くの参拝客を集めて繁栄していた善光寺を巡る争いでもあった。
・さらに信玄は善光寺平から先の直江津の奪取をも視野に納めていた。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局のところ、信長が傑出していたのは経済力なんですよね。そして信長はかなりの経営力を持っていた。やっぱり商業が盛んな尾張の出身というのが大きいでしょう。そしてそれをさらにもろに継承したのが秀吉だったということ。