教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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12/27 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「井原西鶴が見た!江戸時代の大晦日」

江戸時代の年末の暮らしを西鶴から見る

 人情本やいわゆる好色シリーズで有名な井原西鶴であるが、そこには江戸時代の人々の暮らしが描かれている。そこで井原西鶴の「世間胸算用」を通して江戸時代の大晦日の風物について見ていこうというのが今回。いかにも年末向けである。

 まず吉原の大晦日から新年にかけての行事だが、狐舞というものがあったという。吉原内の稲荷神社に祀られている狐に扮した芸人が、遊郭内の若い遊女に抱きつこうとするのだが、遊女の方は必死で逃げるそうな。それは抱きつかれると身籠もるという噂があったからだそうな。遊女としては身籠もってしまうと商売に響くの必死である。

 大晦日と言えば借金取りが走り回っていたという。というのはこの時代の商売は特に高級品はつけ払いで、年末に利息をつけて取り立てることになっていたという。これは逆に言えば、年末さえ逃げ切ったら1年は取り立てから逃げられるということになるので、追う方も逃げる方も必死だったという。

 

 

西鶴が描いた年末の悲喜交々の庶民の姿

 ちなみに井原西鶴は家光の頃に大阪で生まれて一生を大阪で暮らしている。俳諧師として名を知られているが、風流よりも笑いを含んだ句を詠む異端児だったという。30歳の時には24時間俳諧ライブ(1分に1句の割で詠んだそうな)をやって名を上げたという。そして次に出版の方に乗り出し、いわゆる好色シリーズを大ヒットさせる。さらに元禄バブルのまっただ中で世の中が金に注目していたことから、お金に翻弄される人間を描いた世界初の経済小説とも言われる「日本永代蔵」を発表する。これは商売で成功するためのビジネス書の側面もあったという。

 その中に書かれていた話として、藤市と呼ばれていたケチで有名な商売人のネタとして、餅屋が餅を持ってきたときに、置いておいた方が水分が抜けて重さが減るからと引き延ばしを図るなんてものもあるそうな。なお当時の鏡餅は1年を守護してくれる年神様をもてなすためのものであるという。

 年末は商売の書き入れ時でもあるから、ドサクサに紛れてよからぬことを図る輩もいたという。奈良に八助というタコ売りがいたが、彼はタコの足を一本切って七本足にしたタコを売り、切り取った足を煮物屋に売って儲けていたという。それが大晦日になると、忙しいから誰も気付かないだろうと足を二本切り取って六本にしたという。しかしそれを見抜かれてしまい、以降「足切りの八助」と呼ばれて商売が出来なくなったとか。またある住職が年末に法話会を開いてお布施を稼ごうとしたが、参加者はたったの三人でこれだと油台の方が高くなるので、何だかんだと理由をつけて帰ってもらおうとした。しかし来た三人が借金取りから逃げていたとか、妻に追い出されたから寺に泊まりたいと思っていたとか、金がないから草履を盗もうと思っていたとか言う奴らで、全員の思惑が狂ってしまったというオチとか。

 

 

当時の正月準備

 正月準備に苦労する貧しい庶民は、家財道具を競売にかけて費用を捻出するなんてこともしていたという(今で言うところのメルカリか)。そのための夜市なんて場があったという。また庶民は質屋もよく利用していた。

 当時の正月準備と言えばしめ縄や松飾りなどの正月飾り、さらには蓬莱と呼ばれる食べ物を重ねたものなんかもあったという。この飾り付けに必要なのが伊勢エビだったので、正月前は伊勢エビの価格が高騰したという。そこである商人は高騰した伊勢エビを買わずに細工屋で伊勢エビの模型を作らせ、その方が安く上がる上に後で玩具に出来るので良いと知恵を使ったというネタも登場するとか。

 なおこのような正月を送るのは裕福な商人や武家だけであり、庶民はせいぜい雑煮に黒豆、後は数の子に田作りという程度のささやかなものであったという。なおおせち料理も年神をもてなすためのもので、年男といって家の家長が用意するようになっていたという。

 なお世間胸算用には除夜の鐘や年越し蕎麦は登場しないが、除夜の鐘の風習は鎌倉時代の禅寺から発祥し、江戸時代に他の寺に普及したらしいが、実際はまだまだマイナーな風習だったのだという。これが年末の風物詩になったのは昭和になってラジオで中継放送されるようになってからだという。また年越し蕎麦については、そば切りの登場が元禄であり、江戸の白米の普及から来た脚気の対策としてそば切りが広がったらしいが、大阪ではそば切りは普及してなかったという。年越し蕎麦が広く普及するようになったのは、西鶴の死後の江戸時代中期以降だという。


 以上、西鶴の作品から見た江戸時代の庶民の生活。まあ明らかに貧しいんだが、貧しいなりに工夫して生きているって感じがする。今の日本も「この時代は悪政のせいで庶民が貧困化し、三食をまともに取れない子供までいました」とか言われるんだろうか。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・井原西鶴の世間胸算用から見た江戸時代の庶民の生活を紹介。
・当時は高価な買い物は大抵はつけ払いで、年末に回収するので、年末は借金取りと庶民の攻防が繰り広げられていた。
・また年末は商売の書き入れ時であるが、ドサクサ紛れに良からぬことを企む奴もいたとか。
・正月の準備と言えば正月飾りだが、当時は蓬莱と呼ばれる食べ物を重ねたものがあり、伊勢エビが飾りとして必須だったので、正月になると価格が高騰したという。もっともそのような正月を送れるのは裕福や商家や武家のみで、庶民は雑煮に黒豆、数の子と田作りといった辺りがせいぜいとのこと。
・なおこの時代は除夜の鐘はまだ一般に広がっておらず、そば切りも江戸でのみの流行だったので、大阪の西鶴はどちらも描いていないという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・井原西鶴って、当時の流行作家でもあるんだが、今で言うと誰なんだろうな? 現在、世相などを楽しく描ける流行作家って誰も浮かばないんだが。

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