教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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8/22 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「戦国最強!?復活の名将・立花宗茂」

戦国最強、不屈の武将・立花宗茂

 戦国最強の武将と言えば誰かと問われると諸々の名が上がるところだが、実際にはこの立花宗茂を推す声は少なくはない。一般の知名度は上杉謙信や武田信玄などに比べると大幅に落ちるが、彼は当時から天下無双と言われていた上に、何より関ヶ原で改易に会いながら、その後再び大名に返り咲くという数奇な生涯をたどった人物でもある。そう言う意味で結構「玄人好み」でもある。実はこの番組でも取り上げて欲しいという要望は多かったとか。今回の歴史鑑定はこの立花宗茂を取り上げる。

立花宗茂

 

 

大友宗麟の重臣二人を父とする

 立花宗茂は大友宗麟の重臣である高橋紹運の長男として生まれる。子供の頃から非常に武勇に優れているだけでなく優しい心も有しており、紹運も後継ぎとして非常に期待していた。初陣は15才の時の大友氏に反旗を翻した秋月氏の討伐で、150人ほどを率いて出陣した宗茂は敵将の首を上げるという活躍をしたという。この宗茂の活躍は評判となり、その結果として高橋紹運と並ぶ重臣である立花道雪が宗茂を養子に欲しいと申し出る。既に還暦を過ぎていたが後継ぎとなる息子のいない道雪は、宗茂に後を継がせると共に重臣の紹運と固い絆を結びたいと考えていたのである。嫡男を養子に出す(それも期待の嫡男である)ことに抵抗を感じる紹運だが、結局は家督は弟に継がせることにして紹運を道雪の元に養子に出す。こうして宗茂は紹運と道雪の2人の親を持つことになるのである。

 男子のいなかった道雪は一人娘の誾千代に筑前の居城と家督を譲っていた。宗茂は誾千代と夫婦になって婿養子となる。そして宗茂は道雪の元で厳しく鍛えられる。宗茂は道雪の元でも合戦で活躍したという。

 

 

島津を相手に大奮戦して秀吉に認められる

 しかし大友氏は島津氏の圧迫で勢力が縮小して落ち目であった。今や大友氏を支えているのは高橋紹運と立花道雪という2人の重臣の力であった。そんな中1584年、筑後の奪回戦に立花道雪と高橋紹運が参戦する。宗茂は千の兵で道雪の立花城を守り、道雪の留守に押しかけてきた8千の反大友勢を撃退する。しかし翌年に道雪が病で亡くなり、その期をついて島津氏が5万の兵で筑前に侵攻する。最早島津の侵攻を独力で阻止することは不可能と考えた大友宗麟は、秀吉に降って援軍を乞う。援軍が到着するまでの時間を稼ぐために高橋紹運は岩屋城で島津の大軍を迎え撃つ。島津軍5万に対して紹運軍700。紹運を初めとする全員が討ち死にするが、島津軍に4500の死傷者を与える大奮戦をする。

岩屋城跡には高橋紹運の奮戦を讃える碑がある

 岩屋城を落とした島津軍は宗茂が守る立花城を包囲する。堅固な山城で宗茂は徹底抗戦する。秀吉軍が迫る中、ここで長引くのは得策ではないと判断した島津軍は撤退する。するとその期に乗じて宗茂は自ら討って出る。怒濤の勢いで島津勢を攻撃し、高鳥居城を落として岩屋城を奪回する。やがて秀吉軍が到着、宗茂の武勇を聞いた秀吉は感心し、宗茂は九州の一物と評したという。秀吉軍は東西から島津を攻め、西側ルートの先鋒をつとめて大活躍したのが宗茂だった。この活躍で宗茂は秀吉から柳川13万2千石を賜り、大友氏から独立した大名となる。

宗茂の立花城

 宗茂は柳川で領国経営に付くし、家臣や領民にも慕われたが、誾千代とは別居になる。不仲説もあるがそんな単純なものでなく、誾千代を国主と考える一派との対立を防ぐためだったと考えられるというのがこの番組の説。

 

 

秀吉の元で活躍するが、関ヶ原で西軍に属したことで改易される

 宗茂は一揆の鎮圧など秀吉のために大活躍する。小田原の陣で集まった時には秀吉から「東の本田忠勝、西の立花宗茂、天下無双」と讃えられたという。宗茂はさらに朝鮮の役でも敵軍をうち破ったり、孤立した加藤清正を救出するなど大活躍する。しかし秀吉が亡くなったことで宗茂の運命は暗転する。

 関ヶ原の合戦に際し、宗茂は家康から50万石に加増するとして誘われたらしいが、宗茂は秀吉の恩と毛利との関係から西軍に付く。しかし関ヶ原の合戦では、寝返った京極高次の大津城攻略に時間を要していた間に関ヶ原での戦いが終わってしまい、宗茂は全く活躍できないままに敗軍となってしまう。大坂城に戻った宗茂は輝元に徹底抗戦を主張するが通らず、柳川に帰国することになる。途中で落ち延びる島津軍に遭遇、家臣達は紹運の敵を討つ好機といきり立つが、宗茂は「敗軍を討つのは恥」と逆に島津軍の護衛を申し出て共に九州に帰ったという。島津義弘は宗茂の男気に感服したという。

 柳川に戻ったものの、鍋島軍の3万の大軍に攻められ多勢に無勢でさすがの宗茂も配下を失っていくのみで、戦況を見守っていた加藤清正と黒田官兵衛に説得されて降伏する。宗茂は改易されて所領を失うことになる。34才にしての浪人である。宗茂は加藤清正に妻や家臣を預けると20人ほどの側近と共に京に上ってお家再興の機を窺うことになる。しかしそれもなかなか叶わず、その間に妻の誾千代が亡くなる。

 

 

浪人生活の後についに大名に復帰、旧領への帰還も果たす

 ようやくチャンスを得たのは1606年に二代将軍の秀忠への謁見の機会を得た時。ここで宗茂は秀忠から棚倉に1万石の領地を得て大名に復帰することになる。秀忠は高名な宗茂を抱えたい意志があったし、家康も宗茂が秀頼に付くのを警戒していたので召し抱えたいと考えていた。

 大名復帰の4年後には宗茂は江戸御留守番に就任し、3万石に加増される。1614年には大坂の陣で秀忠の元で軍事的指南を行い、経験に基づいた適切な判断で秀忠に貢献してその実力を見せつけることになる。これを聞いた家康は秀忠に宗茂とはこれからも懇意にすべきと伝えたという。そして秀忠が駿府城に家康を見舞いに行った時は、通常は譜代に任される江戸城大手門の警備を宗茂が任されたという。そして1620年に、柳川の田中家が後継ぎがいなくてお取りつぶしになった時に、宗茂は柳川藩10万9千石の大名として旧領に復帰を果たす。そして加藤清正に預けていた家臣達を呼び戻す。

 その後の宗茂は島原の乱でも軍師として活躍して76才でその生涯を終えたという。

 

 

 以上、九州の復活の猛将・立花宗茂について。やっぱりかなり能力の高い人だったので、回りも放っておくわけにも行かなかったんだろうな。しかもあくまで筋を通す人だから、敵に回したら恐ろしく、味方につけたけらこれほど頼もしい人物もいなかったろう。また本人自身には天下を覗うとかそういう野心もなさそうだし。

 かなり恵まれた体躯をしていたようだから、個人的武勇に長けていたのは当然としても、軍勢率いても滅法強いわけだからまさに無双。大坂の陣の頃には実戦経験のある将は大分いなくなっていたとのことだから、こういう実戦の勘を持っている武将がいるのは戦下手の秀忠にとっては頼もしかったろうことは想像に難くない。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・立花宗茂は大友宗麟の重臣の高橋紹運の嫡男として生まれ、若い頃から優れた武勇を発揮する。
・それを見込んだやはり重臣で後継男子のいなかった立花道雪が養子に望む。紹運は抵抗するが道雪の熱心さからそれを受け入れる。
・宗茂は道雪の娘で家督を継いでいた誾千代の婿となって婿養子入りし、道雪に厳しく鍛えられる。
・大友氏が衰退する中、道雪が亡くなり筑前は島津の侵攻を受ける。高橋紹運は岩屋城で秀吉の援軍が到着までの時間稼ぎのために壮絶な討ち死にを遂げ、宗茂は立花城を守って徹底抗戦。さらに秀吉軍に備えるために撤退した島津軍の背後を討って大ダメージを与える。
・宗茂の活躍を耳にした秀吉はこれを大いに賞する。さらに宗茂は秀吉軍の先鋒として島津討伐で活躍、後に秀吉から柳川13万2千石を与えられて独立大名となる。
・宗茂は秀吉の恩に報いるべく活躍、小田原の陣では本多忠勝と並んで天下無双とたとえられ、さらに朝鮮の役でも奮戦する。
・しかし秀吉が亡くなり、三成と家康の対立に巻き込まれることに。宗茂は家康から50万石への加増の条件で勧誘されるが、それを断って西軍に付く。
・しかし関ヶ原の合戦は、宗茂が大津城を攻略している間に西軍が敗北、宗茂は関ヶ原で全く戦うことのないまま敗軍となってしまう。柳川に撤退したものの、鍋島勢の大軍に攻められて降伏する。
・宗茂は改易され、20人の家臣を率いて京に上って大名としての復帰の機会を覗う。
・1606年に二代将軍となっていた秀忠との謁見が叶い、棚倉1万石の大名として召し抱えられる。その後、着実に信頼を得て、大坂の陣では秀忠の軍師としてその実力を遺憾なく発揮する。
・1620年、柳川の田中氏が後継ぎがなく改易になったことから、ついに宗茂は旧領の柳川へ10万9千石の大名として復帰を果たす。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・立花宗茂と父の立花道雪、妻の誾千代を祀った三柱神社は、復活祈願の神社として人気を博しているとのことだが、この復活の執念は確かにスゴイ。あやかりたいと参拝する人もいるでしょうな。まあ私の場合は復活もクソも、そもそも今まで一度も浮かんだことがないが。

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