教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/5 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「関ヶ原の戦い 真の裏切り者は誰だ!?」

関ヶ原の裏切り者と言えば小早川秀秋?

 関ヶ原の合戦は兵力では東軍・西軍ほぼ互角で、布陣は山上から包囲するような形を取った西軍が圧倒的に有利だと言われている。しかし実際は戦いは1日で西軍の惨敗。それには西軍から多くの裏切り者が出たことが影響している。ではその裏切り者たちの中で一番大きな影響を与えたのは誰だというのが、今回の歴史鑑定のテーマである。

 まず関ヶ原の裏切り者と言えば何はともあれ小早川秀秋である。松尾山に1万5千の兵力で陣取りながら、合戦が始まっても一向に動かず、その挙げ句に東軍に寝返って西軍に側面から攻撃をかけたことで西軍は総崩れになった。と言うわけで戦局に最終的に決定的な影響を与えたのは間違いなく小早川秀秋である。なお家康に内通しておきながら、一向に動こうとしない秀秋に業を煮やした家康は秀秋の陣に向かって鉄砲を撃たせ、これに驚いた秀秋が寝返りを決めたという話があるが、実際は家康の陣から松尾山までは1キロ以上の距離があり、合戦の喧噪の中で撃たれた銃声が届くとは考えにくいという。これについては遙か昔に「歴史科学捜査班」でも、実験の結果無理があるという結論になっている。

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 秀秋は秀吉の養子であったが、それにも関わらず西軍を裏切った理由は、まず秀吉への恨みがあるという。秀秋は最初は秀吉の養子として大事に育てられたが、秀頼が生まれると邪魔者と言わんばかりに13才で小早川隆景の元に養子として出される。しかも秀次事件で秀秋も謀反の疑いがかけられて丹波亀山の領地を奪われたという。さらに石田三成にも恨みを持っている。朝鮮出兵で石田三成の讒言によって帰国後に減封されたという話がある。

 

 

動かなかった島津義弘に毛利輝元

 次に裏切り者としてあげられているのが島津義弘である。義弘は石田三成の脇に陣取っていたにもかかわらず傍観を決め込んで動かなかったという。しかしこの時の義弘は1500の兵士か連れておらず、流石の鬼島津でもそもそも戦局に影響を与えられる数ではなかった。これは兄の義久と対立していたために、本国が兵を出さなかったことから、参戦したのは義弘の手勢のみだったためだという。また義弘は石田三成にもわだかまりを持っていた。また前日の大垣城での東西両軍の衝突で、石田三成に夜襲を提案したものの三成がそれを拒絶したことで、三成の戦闘指揮に対する不信感もあったという。結局は鬼島津がその武勇を発揮したのは、西軍の惨敗が決まってからの脱出行であった。家康本陣に突進して逃亡するという大胆な撤退は島津の退き口として伝説化している。

 三人目の裏切り者は西軍総大将の毛利輝元である。毛利輝元は三成らに担がれて総大将として大坂城に入ったものの、自らは出陣せずに養子の秀元を送ったのみであった。三成は秀頼を伴っての出陣を望んだようだが、それには応えなかった。それは淀殿が秀頼の出陣に反対したとか、大坂城内に内通者がいるために秀頼を守っていたなどとも言われるが、実際のところは東西両軍を天秤にかけ、毛利家の生き残りをかけて家康にも言い訳が立つように考えていたのだという。

 

 

南宮山の兵を抑え込んだ吉川広家

 そして四人目の裏切り者がその毛利の家臣である吉川広家である。彼は毛利輝元の従兄弟に当たるという。南宮山には毛利以外にも長宗我部盛親などの3万の兵を配していたのだが、最初に攻撃をかけるべき位置にいる吉川広家が全く動かなかったために、後の長宗我部などが参戦することは叶わなかったという。「なぜ動かない」と長宗我部からせっつかれた毛利秀元は「兵に弁当を食べさせている」と誤魔化したという。

 広家が裏切ったのはそもそも彼が黒田長政に通じていたことから、東軍が有利と見て輝元に対しても東軍につくように勧めていたという。その後、輝元が西軍の総大将に担がれたのだが、広家は戦いの前から家康に輝元に対する寛大な処置を条件に寝返りを確約していたという。だから輝元を大坂城に留まるように進言していたのが広家だとのこと。また広家が寝返ったことが確実なことから、家康は南宮山の麓の桃配山に本陣を置くことが出来たし、小早川秀秋も南宮山が動かないのを見て、東軍の勝利を確信して寝返ったと考えられるという。そういうことから一番決定的な裏切り者は吉川広家であると番組はしている。

 なお各裏切り者の戦後であるが、小早川秀秋は筑前30万石から岡山55万石に加増されるが、その2年後に亡くなっている。島津義弘は討伐を考えられたが、周囲の取りなしで義弘の隠居を条件に島津家は本領安堵されている。一方の毛利家は家康から改易を突きつけられる。家康は毛利家を改易して広家に30万石を与えるつもりだったようだが、広家はそれを辞退して毛利家の存続を家康に願い出る。結局毛利家は30万石に減封されて存続が許されることになり、広家は輝元から岩国5万石を与えられる。

 

 

 以上、裏切り者たちのその後。ちなみに一番影響の大きかった裏切り者は吉川広家というのは私も全く同感である。南宮山の3万は西軍の主力と言っても良い兵力であり、これが側背から家康の本陣を攻撃していたら、小早川秀秋が裏切る前に西軍の圧倒的有利になっていた可能性があり、そうなっていたら秀秋も寝返りを躊躇い、そのまま最後まで動かないか、もしくは後で咎められるのを恐れて西軍側で参戦している可能性もある。そうなると東軍は一時撤退に追い込まれるのは確実で、下手すれば全軍崩壊で家康が討ち取られる可能性もないわけではなかった。

 それにしても西軍は本隊の南宮山に、松尾山の小早川が全く動かない状況で、一応一進一退の攻防を繰り広げていたのだから、これは善戦していたと言えると思う。兵力差を考えると、本来なら小早川の寝返り以前に全軍崩壊しても良かったぐらいであるが。三成の回りの連中が意外に戦意が高かったのと、有利な陣形に布陣していたということだろうか。

三成の本陣跡、確かに戦場を見下ろす高地にある

 

 

忙しい方のための今回の要点

・関ヶ原の合戦の西軍の裏切り者について、誰がもっとも影響を与えたかを考えている。
・まず直接戦況に決定的影響を与えたのは小早川秀秋である。彼は秀吉の養子であったが、秀頼誕生後に秀吉に疎まれたことで秀吉に恨みがあり、また朝鮮出兵後も三成の讒言で減封された恨みもあり、家康からの誘いに乗ったと考えられるという。
・石田三成の隣に布陣していた島津義弘は合戦を傍観していた。それは兄の義久と対立していたせいで軍勢が1500と少なかった上に、前日の大垣での戦いで軽んじられたことで三成に対する不信感もあったという。
・西軍総大将の毛利輝元は結局は大坂城から動かなかった。これは輝元自身が東西両軍を秤にかけて、東軍が勝った場合にも家康に対して申し訳が立つように考えていたからだという。
・毛利配下の吉川広家は最初から東軍に通じており、家康に輝元の寛大な処置を願い出る代わりに南宮山の兵を抑えていた。結局広家の裏切りで南宮山の西軍は最後まで参戦していない。
・また南宮山が動かないことで東軍の有利を確信した小早川の寝返りも誘ったと考えられるということで、一番の裏切り者は吉川広家というのが番組の結論である。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・石田三成としては、西軍が勝利するには秀頼を引っ張り出すしかなかったように思われるのだが、それに失敗した時点で負けが決まったようなものだろう。以前にNHKの特番で秀頼出陣のための山城まで用意されていたというのが放送されていたが、それが実現していたらかなり歴史は変わったのだが(福島正則や加藤清正が秀頼に対して刀を向けるわけには行かないだろう)。

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