教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/7 NHK 歴史探偵「千利休」

千利休の思想と切腹の理由に迫る

 秀吉の時代に茶の湯で頂点に立ち、さらに秀吉の側近として権勢をも極めた千利休。しかしその利休は秀吉から切腹を命じられることになる。この理由については未だに定説はないが、この番組独自の推理をすると共に、利休が茶の湯で目指していたところを紹介する。

千利休

 まず利休が権勢を極めた理由であるが、茶の湯の社会的意味が信長以降で大きく変わったことがある。信長は功績を上げた家臣に対しての褒美として、領地でなくて茶器を与えることで茶器の価値を高めた。土地は限りがあるから、茶器の方が都合が良かったのである。また茶会はそこで政治の話が行われる政治の場となっていった。秀吉の時代に茶の湯のトップに立った利休は、側近として秀吉と大名の取次をすることになる。

 

 

利休切腹には黒幕がいた?!

 ではなぜ切腹させられたかだが、まずは利休の切腹の理由について書かれた文献を同時代のものと後世のものに区分けすることから始めている。それによると同時代の資料からは「大徳寺の山門に利休の木造を据えたこと」「利休が茶器に不当な高い値をつけて売った」の2つが上がっているという。

 ではそれで決まりかとなるところだが、大日本茶道学会会長の田中仙堂氏によると、いずれの理由も明らかに不自然で言いがかりとしか思えないというのである。大徳寺の山門に利休の像を据えたのは寺側であるし、しかもこれは切腹の1年前。さらに茶道具の売買については利休は商売人だから、安く仕入れたものを高く売るのは当たり前だという。そこで田中氏は、このような言いがかりをつけて利休を始末したかった黒幕がいると推測しており、それは石田三成なのではとしている。

 三成が利休を排除したかった理由だが、それは秀吉の天下が定まったことで政治体制が激変したことによるという。それまでは茶席で内々に政治を話し合っていたのが、これから表立って官僚機構が政治を取り仕切ることになる。そうなった時に利休のような旧体制の権力者が邪魔だったのではという。

 さらに秀吉も利休を必要としなくなった理由があったとする。この頃に秀吉は関白となったので、これからは家臣に対する恩賞として、茶器ではなくて官位を自由に与えられるようになった。官位は茶器と違って大名間での序列もハッキリするためにその方が好都合であったのではという。

 

 

利休が目指した茶の湯の精神

 一方の利休はどう思っていたかだが、残された利休の歌などからは、自身が純粋に追及していた茶の湯の世界が政治の道具となることには忸怩たる思いを抱いていたことが覗えるという。利休は茶の湯の世界を大きく変革しており、その変革のほどは意外なところではポルトガル宣教師の布教のマニュアルから覗えるという。信長時代のマニュアルには「教会に茶室を設けるべき」というような簡単な記述があるのみだが、利休の時代になってからはかなり細かく茶の湯の流儀などが書いてあるという。利休が茶の湯の様々なルールを制定したのだという。

 利休以前の茶の湯は高価な中国製の道具を輸入して使用していた。それを利休は魚籠を花入れにしたりなど、質素でも工夫をこらした佗茶の世界を確立した。茶器と人ではなく、人と人が対話する世界を目指していたのだという。

 また利休は茶碗も大きく変えた。それまでの唐物でなく、自身の理想とする茶碗を作らせており、これが今日にも引き継がれている楽茶碗である。楽茶碗はろくろを使わずに手捏ねという方法で製作されており、手で直接造形することで手の中にしっくりと馴染む自然な形を実現しているという。また番組ではこの後、唐物の茶碗と楽茶碗に湯を入れて温度を比較しているのだが、唐物の茶碗はすぐに温度が50度ぐらいに上がって、手で持つのに少々難儀する温度になるのだが、肉厚の楽茶碗は40度ちょっとぐらいで安定するので、手に収まりやすいのだという。手の中で茶碗の存在がなくなることで、さらに人と人がつながるのだという。

 さらにこの利休の思想が反映した茶室が待庵であり、狭い躙り口からは帯刀して入ることは出来ず、武士でも刀を置いて入る必要がある。中は2畳と非常に狭く、また薄暗い。この狭くて薄暗い空間に一緒にいるうちに、互いの境界が消えて渾然と一体になる感覚が得られるのだという。人と人を平等につなぐ。これが利休の考えだったのではとしている。となると、この考えは権力の頂点に立つ秀吉に取っては不都合なものであった。

 

 

 以上、千利休の切腹の理由及びその思想についての推測。千利休の切腹については今までも様々な仮説が唱えられており、歴史番組でも様々扱われている。今回番組で唱えていた「新体制に移行する中で、旧体制の象徴である利休は邪魔だった」「利休の茶の湯にある平等精神が不都合だった」というのは以前に「英雄たちの選択」でも紹介されている。

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 なお「にっぽん!歴史鑑定」では利休の茶の湯の平等精神が理由に挙げている。

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 「歴史科学捜査班」は秀吉と利休の茶の湯の路線の違いに、秀吉が博多商人を重用するようになって利休と対立したを挙げている。

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 ちなみに少し毛色の変わった話としては「偉人たちの健康診断」が、利休は実は切腹ではなくて追放だったということを唱えているが、これについては他の番組は扱っていない。

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 なお私は「耄碌してきた秀吉が疑心暗鬼に陥った」説を採っている(笑)。切腹の理由については諸説あれど、秀吉と利休の目指しているものにズレが現れてきた上に、時代の変化によって秀吉に取って利久は必要性がなくなったということだろう。弟の秀長はともかく、一介の商人である利休がナンバー2のような位置にいることは不都合でもあり、疑心暗鬼を誘うものでもあったように感じる。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・千利休は秀吉の元で茶の湯の頂点に立つ。当時は茶会が政治にとって重要な場であったことから、秀吉の側近として利休は権勢を極めるが、突然に切腹を命じられることになる。
・切腹の理由については諸説あるが、同時代の文献で言われているのは「大徳寺の山門に利休の木造を据えた件」と「利休が茶器を不当に高い値で売った件」とのことだが、これらは言いがかりであり、実は官僚制度が確立していく中で、旧体制の象徴の利休は邪魔になったのではとしている。
・また利休自身は自らの茶の湯が政治の道具となることには忸怩たる思いがあった様子が見られるという。
・利休はそれまでの唐物の高価な茶器を使う茶の湯から、質素で工夫を凝らした佗茶の世界に大転換を果たした。
・利休の茶の湯には誰もが平等な立場で心を通い合わせるという思想が見られたが、これが権力者の秀吉には不都合だったという説もある。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・利休亡き後に茶の湯の頂点に立ったのは利休の弟子の古田織部なんですが、その古田織部も家康によって切腹させられているんですよね。どうも政治の中枢に近づきすぎた文化人は良い最後を遂げられないようで。

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