ホロコースト否定論を巡る裁判
今回のテーマは歴史修正主義者と歴史学者が歴史の真実を巡って裁判で争ったという異色の事件である。
問題の裁判は2000年1月11日にロンドンの王立裁判所で行われた。裁判自体は歴史の真実を争うと言うのではなく、歴史作家のディヴィッド・アーヴィングが歴史学者のデボラ・E・リップシュタットを名誉毀損で訴えた民事裁判である。アーヴィングはナチスのホロコースト否定論者であり、ヒトラーはユダヤ人殺害を命令していない、ガス室は存在しなかったという荒唐無稽な主張を唱えていたいわゆるナチス信奉の歴史修正主義者である。
アーヴィングは以前からイギリス人でありながらドイツ人側からの視点で戦争を見る本を執筆していたという。それがついにはホロコースト否定に行き着いたようである。アーヴィングの主張は「ヒトラーがユダヤ人虐殺を命じた文書はまだ見つかっていない」ということから「ヒトラーはユダヤ人虐殺を命じていない」と論理を飛躍させているのである(歴史修正主義者がよく使う手)。しかし歴史学的には傍証となる膨大な資料が存在し、ヒトラーがユダヤ人虐殺を口頭で命じたのはほぼ間違いないとされている。
真っ向から裁判を受けて立った歴史学者
通常の歴史学者はこういうアホらしすぎる主張は歯牙にもかけないのだが、ユダヤ人歴史学者であるリップシュタットはこういう荒唐無稽な主張も大声で唱えられることで一般大衆に対して悪い影響を与えることが看過できなかった。実際にこのような主張が大声でなされることで、「ナチスのホロコーストの存在については疑問の余地がある」と考えている一般人の数は増えてきていた。そこで彼女は自らの著書で「アーヴィングはヒトラーの熱烈な崇拝者であり、自分の信条に合わせるために事実を歪曲して史料を加工する」と彼の主張を痛烈に批判した。これに対してアーヴィングが名誉毀損でリップシュタットを訴えたのである。
この訴えに対してリップシュタットは、和解などはせずに法廷で真っ向勝負することにした。しかしこの裁判はリップシュタットにとっては非常にリスクが大きいものだった。当時のイギリスの裁判では訴えられた側が非難内容の正当性を証明する必要がある。つまりリップシュタットはアーヴィングがヒトラーの熱烈な崇拝者であり、史料をねじ曲げて事実を歪曲しているということを証明する必要があるのである。そのためにはアーヴィングの本や講演の元になっている史料を片っ端から調べ上げて精査するという膨大な労力が必要となるのである。これには人手が必要であり、裁判費用も億単位でかかることになる。しかし彼女は歴史を歪曲することは許されないとの思いで裁判に臨んだのである。
裁判はアーヴィングは弁護士を立てずに自らが法廷に立ち、被告のリップシュタット側は3人の弁護士に歴史学者のチームで臨むことになった。この裁判の争点は、1.ヒトラーはユダヤ人虐殺を命じず虐殺を止めようとした? 2.ガス室で大量虐殺は行われていない? の2つの争点についてアーヴィングが史料のねじ曲げを行っていることを証明し、3.史料のねじ曲げは反ユダヤ主義思想によるもの ということを証明するというものである。特に3が核心だという。反ユダヤ主義者はユダヤ人が補償金を目的にホロコーストをでっち上げたと考えているのだという(何か良く似た主張を非常に身近で耳にしたことがあるような気がするが)。
史料の恣意的捏造が発覚
まず最初のヒトラーがユダヤ人虐殺を止めたという主張だが、アーヴィングが根拠にしているのはイギリス軍の盗聴記録であり、捕虜にしたドイツ軍将校が「今後は大量銃殺を禁止するという命令が下された」と語った一文があり、アーヴィングはこれがヒトラーがユダヤ人虐殺を止める命令を出したことだと主張していた。さらにナチス親衛隊ヒムラーのメモに「ベルリンからのユダヤ人の移送 抹殺なし」との記述があり、これらからヒトラーとヒムラーが協議して、今後すべてのユダヤ人を抹殺しないという命令を下したという説を組み立てていた。
しかしイギリス軍の盗聴記録は確かに「今後は大量銃殺を禁止する命令が下された」という一文があるが、その直後に「実施する場合は秘密裏に進めること」との記述があることを弁護側は明らかにした。つまりは大量銃殺を隠蔽せよという命令であり、アーヴィングは意図的に後半を秘して自説に都合の良いように歪曲したことになる。アーヴィングは不当な省略でなくて要約だとか詭弁を弄する。またヒムラーのメモについては、記述されているのが単数形であり、これは列車一台分の話であり、すべての話ではないのだが、アーヴィングはこれを意図的に複数形に歪曲していた。これについてはアーヴィングはメモを読み違えたと言い訳するが、同様のねじ曲げが19箇所もあることを弁護側は指摘、アーヴィングは要約だ、推測だなどと言い訳したが、ついには「一部の史料についてはそちらの主張が正しい」と発言せざるを得ない状況に追い込まれる。
ガス室の存在についての印象操作
次の争点となったのがガス室でユダヤ人虐殺が行われていないかどうかというものである。アウシュビッツには5つのガス室があったが、ナチス親衛隊による証拠隠滅のための破壊があり、当時の建物は残っていないことがガス室の存在についての疑問を示す者が出る原因ともなっている。1988年にはフレッド・ロイヒターなるものが無許可でガス室の壁のサンプルを持ち帰り、毒ガス残留濃度の測定を行い、ガス室での残留ガス濃度はシラミ駆除のための消毒室のものよりも遥かに低いという報告を出版し、アーヴィングはこの報告に影響を受けたという。ちなみに今日ではこのロイスターの測定は非常に雑であって信頼性がないことが指摘されているという。
アーヴィングはガス室は死体の消毒に使われていたと主張するが、焼却する死体をなぜ消毒する必要があると迫られ、次は防空壕だったとかのらりくらりと主張を変える。リップシュタット側は建築士の専門家を呼び、改築工事の図面からあそこはガス室であることは間違いないということを主張する。実際にはガス室の存在を示す膨大な証拠が存在しているのである。しかしアーヴィングは閉廷間際に毒物の投入口がないからガス室でないとの主張を行う。これについてリップシュタット側は爆破の際に瓦礫になったのだし、生存者の証言も一致していると主張する。この日は時間切れで終了となるが、アーヴィングはマスコミに対して「ノーホール・ノーホロコースト」というパフォーマンスを行う。つまりは投入口が存在しないのだからホロコーストは存在しないとアピールしたのである。こういうセンセーショナルな話題が大好きなマスコミはそれに飛びつき、あたかもアーヴィングが優勢に裁判を進行しているかのような印象操作に結びつく。なお実際には投入口は存在しているという。
アーヴィングの反ユダヤ主義も証明され、いよいよ判決が下る
最後にアーヴィングが反ユダヤ主義思想からねじ曲げを行ったかであるが、これについてはアーヴィングのこれまでの膨大な講演のビデオなどが検証された。ここではアーヴィングはユダヤ人が金目的でホロコーストを唱えていると訴えており、彼が反ユダヤ主義であることは明らかであった。そこでアーヴィングはリップシュタットの圧力で本の出版が中止になるなどが発生しており、言論の自由を守れとの主張を始める。つまりは反ユダヤ主義思想にも発言や出版の権利はあるというものである。完全な争点そらしだが(これも歴史修正主義者がよくする)、リップシュタット側でもヘイトクライムに結びつくヘイトスピーチは言論の自由に値するかは意見が分かれたという。リップシュタットも裁判が最悪の結果になる恐れをも抱いたという。
そして2000年4月11日、判決が下る。それは全面的に被告の訴えを支持するものであった(さすが民主主義発祥の地ではある)。アーヴィングは判決後もしばらくはホロコースト否定論を唱え続けたが、現在は公の場では語ることがなくなっているという。
なんか、どこかで見たことがあるような論理構成だなと言うのをつくづくと感じる内容である。のらりくらりと言い抜けて、最後は論点を変えてくるなんていわゆるロンパ王なんかも使う手法でもある。
なお番組では「当時の生き証人がいなくなったぐらいから、歴史修正主義が湧き起こり出す」と言っていたが、まさにその通りである。私なんかもこのまま行けば、その内に広島・長崎の原爆投下はフィクションだと言い出す輩まで登場するのではという気さえしている。
この裁判については、リップシュタット単独ではなく「真の歴史を守れ」と立ち上がった多くの歴史学者がバックアップをしており、その上にイギリスの法廷はまともであったからまともな判決に結びついたが、日本で同じことが起こったらどうなるかということはいささか心許ない。日本の歴史学者がそこまでの気骨があるかは怪しいし、何しろ忖度を最優先にする日本の裁判所の信頼性はかなり低い。
ところで今回はナチスの例を持ち出すことで、視聴者に「歴史修正主義とはいかなるものか」を紹介しているのであるが、この時期にあえてこのネタを出すことには意味があるということを感じる。私はNHKは組織レベルでは既に救いがたいレベルになりつつあるが、現場レベルではまだ良識を持つ者は少なくはないと感じており、この番組もそういうメッセージだと感じるのであるが、その辺りは如何に。長年のNHKの番組の愛好家としては、組織が根っこの部分まで腐ってしまっているとは思いたくはない。
忙しい方のための今回の要点
・2000年1月11日、イギリスでホロコースト否定論をテーマとした裁判が実施された。
・その内容はホロコースト否定論者のアーヴィングの主張に対して、反ユダヤ主義に基づいて史料を歪曲していると批判したリップシュタットをアーヴィングが名誉毀損で訴えたものである。
・リップシュタット側の弁護人は緻密な史料により、アーヴィングの主張の根拠となる史料に対する捏造などを明らかにしていくが、アーヴィングはマスコミの好奇心を煽って自らが有利に見えるような工作をしたり、最後は言論の自由を持ち出すなどの争点変更などを行って自らの主張の正当性を訴える。
・しかし最終的には被告のリップシュタットの勝利となる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあとにかく今回の内容は「どこかで聞いたことがあるな」と思うことが一番大事ということでもある。恐らくそれが番組制作者の意図であると私は読み解く。