教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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5/24 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「千利休はなぜ秀吉に切腹されられた?」

信長によって天下に出て行った利休

 秀吉によって天下一の茶人とされながら、最後はその秀吉に切腹を命じられた千利休。その裏には一体何が起こっていたのか。

 千利休は堺の豪商だった。当時の堺は町民が自治を行っており、そんな中で社交に用いられていたのが茶の湯である。利休はここで商人としてだけでなく、茶人としても名を上げネットワークを築いていく。

 そんな利休にとっての転機は信長の台頭であった。堺の富と鉄砲に目をつけた信長は堺に介入してくる。そして堺とつながりを強化するために、今井宗久、津田宗及、さらに千利休を茶会を取り仕切る茶頭に起用する。3番手の茶道だった利休だが、信長は彼の美意識を高く評価して破格の三千石の待遇で迎える。

 

信長の死後、秀吉と結びつくように

 しかし本能寺の変が発生、秀吉が利休に近寄ってくる。山崎で政務を執っていた秀吉は城に茶室を作らせ、そこで利休に茶会を催すことを命じたという。利休は茶人仲間に「面倒なことになった」というような文を送っている。秀吉は利休を筆頭茶頭に起用する。秀吉は信長が茶道を政治に利用していたのを見ていたので、それに習ったのだという。また利休は商売の関係で全国レベルの情報収集力を持っていたので、秀吉はそれに目をつけたのだという。なお最初は「迷惑」というような文を書いていた利休だが、半年後には「浮き浮きした気持ちでいる」と文に書いており、権力者に登用されることに対する喜びも感じていたようである。

 秀吉の小牧長久手の戦いでは、利休は秀吉の指示を諸将に伝えたり、秀吉が大阪に引き上げてからは弟子の高山右近や古田織部を通じて得た戦況を秀吉に伝えるなどの役割を果たしていたという。こうしてて利休は秀吉の天下取りに貢献している。

 秀吉が関白に就任すると利休は秀長と共に側近として政治に関与することになる。大友宗麟が秀吉に助けを求めて来た時は、秀長が内々のことは利休に相談するようにと伝えている。実際に宗麟は利休の権限に驚いたという。利休は秀長と密接な関係を築いており、秀長が取りなすことで利休は、秀吉に対しても自分の考えを主張出来るほどの力を持っていた。

 

秀吉の元で頂点を極める利休

 朝廷に接近する秀吉は宮中に参内して正親町天皇に茶を献じることになる。秀吉はこれを筆頭茶道の利休に取り仕切らせるつもりだったが、利休は官位を持たないために宮中に入ることを許されない。この時に利休は官位に関係なく宮中に入ることが出来る僧になることにしたという。この時に利休は利休居士という号を天皇から賜っており、これ以降利休を名乗るようになる(それまでは千宗易)。利休の影響力は絶大となり、茶器の価格は利休が決めると言われるようになる。茶席で利休のお眼鏡に適うことが武将の出世にも関わるようになってくる。

 秀吉によって北野大茶湯が開催される。茶の湯が好きなら身分不問で参加出来るというこの大イベントを取り仕切ったのが利休である。これは秀吉が天下人になったことのアピールであった。この時には秀吉の黄金の茶室が運ばれたという。茶会は大成功して秀吉の天下は万全のものと見られるようになる。

 

突然の切腹、その理由は?

 しかし利休が秀吉から切腹を命じられるのはその4年後である。切腹の理由として秀吉は大徳寺の山門に建てられた利休の像の下を秀吉がくぐらされることと、利休が茶道具の売買で得た利益を不当なものとしたという。しかし大徳寺の像は利休が立てさせたものでない名ことは明白であるし、茶道具の売買も利休が不当に利益を上げたというよりも、利休の茶道具が人々に人気を博して価値が高くなっただけで、いずれも明らかに理由のこじつけであるという。では本当の理由は何だったのか。

 これについては昔から諸説上げられている。まず利休が秀吉の朝鮮出兵に反対したという説だが、確かに博多商人の台頭を懸念する利休が反対した可能性はあるが、資料自体は残っていないという。さらに石田三成の陰謀という説もある。この2ヶ月前に利休の後ろ盾でもあった秀長が亡くなっており、三成を中心とする五奉行が政治権力を掌握するのに利休を追い落としたというものだが、これもそれを示す史料はないという。さらには秀吉と利休の茶の湯の路線が違ってきたというのも良く言われる説で、確かに晩年の利休は佗茶に向かうのに対し、秀吉は黄金の茶室で知られるように派手好みである。しかしそもそも黄金の茶室は利休の設計で、実はその中にも佗茶の精神は組み込まれているという。

 では真相は?ということで、番組が掲げるのは精神性の問題である。利休の茶室はにじり口でも分かるように茶室の中では誰でも平等という精神を持っていた。しかしこの頃の秀吉は社会秩序として身分制度を確立しようと躍起になっており、一介の茶人である利休が力を持つ状況は好ましくなかったのだという。利休は十字に腹を割くと自ら臓腑を引き出してから首を打たれたという。壮絶な最期である。秀吉は利休の首をさらし者にしたという。あまりにも冷酷な仕打ちにも思える。

 

 まあ秀吉が想定していた以上に利休が巨大になりすぎたということでしょう。さらに秀長が亡くなったこの頃から秀吉は覿面に耄碌し始めており、巨大になりすぎた利休が脅威に感じられたのだろうと推測する。信長のような元々からの大名であった者は、「たかが町人風情」と軽く考えるのだが、百姓上がりの秀吉から見ると、利休が将来的に自分に取って代わる可能性さえ考えられないものとは言えなったのだろう。

 これ以降の秀吉は、将来秀頼の脅威となるだろうと思われる者を次々と粛正していき、結果としてはそれが逆に豊臣家の命運を尽きさせることになってしまうのであるが、その最初であったような気がする。実際に秀長と利休という秀吉のブレーキとなれた存在が亡くなったことにより、秀吉はこの後ひたすら暴走していく。

 なお利休亡き後の茶道は利休の弟子だった古田織部が独自の発展をさせるのであるが、その織部は大坂の陣後に家康によって切腹させられることになる。当時の茶道とはまさに政治そのものだったわけである。

     
古田織部の生涯を描いたこの作品には千利休も登場します

 

忙しい方のための今回の要点

・堺の商人で茶の湯にも通じていた利休は、堺の富と鉄砲に目をつけた信長によって茶道に起用される。
・信長の死後、秀吉が利休に接近して筆頭茶道に起用する。利休はその情報網を活かして秀吉の天下取りに貢献する。
・秀吉が関白に就任すると利休は秀長と共に豊臣政権の中枢に関与することになる。
・利休は秀吉が正親町天皇に茶を献じる時の取り仕切りをしたり、北野大茶会の取り仕切りをしたりで利休の名声は上がり、茶器の価格は利休が決めると言われるようにまでなる。
・しかしその4年後、利休は秀吉に切腹を命じられることになる。理由については諸説言われているが、番組が唱える説は、茶室の中では誰もが平等と考えていた利休の思想は、身分制度を確立しようとしていた秀吉に取っては邪魔になってきたというものを挙げている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・利休切腹の真相については諸説あるのですが、何にせよ、これが豊臣政権の転機になったのは事実でしょう。この頃ぐらいから秀吉のそれまでの人たらしと言われた寛容さは影を潜めるようになり、それと共に段々と政権の雲行きが怪しくなってきます。やっぱり「耄碌した」としか思えないんですよね。

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