倒産工場の再起をかけた勝負
戦後の日本。財閥や大手企業の解体が進む中で、その煽りを受けた工場が琵琶湖のほとりにあった。松下電器の子会社だった松下金属瀬田工場。戦時は砲弾を作っていたが、戦後は本社から切り離され、鍬や鎌を作っていたが経営は行き詰まっていた。そこに父の勧めで技術者として入社した山下友一がいた。しかし給料は遅れがちで、ついに工場が閉鎖されてしまう。
しかしそこに乗り込んできたのが井植歳男だった。彼はこの工場を買い取ると言った。井植は松下幸之助の義弟で、松下電器に入社して二股ソケットを売りまくった伝説の営業マンであった。人間ブルドーザと言われた行動力が抜群の男だった。しかし戦後は軍需産業に関わったとしてGHQの公職追放令で会社を追われていた。この男がようやく戻ってきたのである。「小さくてもいい、心のこもったものを作ろう」という井植に山下は「再生主」という言葉を思ったという。井植はここに立ち上げたばかりの会社である三洋電機滋賀工場の看板を掲げる。会社は携帯用や自転車用のランプの製造を開始する。
電気洗濯機の開発に挑む
2年後、社長室から大きな音が聞こえるので社員の岡田隆夫が駆けつけると社長室は水浸しになっていた。井植はアメリカから取り寄せた洗濯機のテストをしていたのだ。社員6人が呼ばれて、我が社は普通の人が買える洗濯機を作ると命じられる。当時は選択は女性にとっての重労働であり、家族5人分の洗濯物は1年で象一頭分の目方にもなったという。しかし当時のアメリカの洗濯機は高価である上に電力を400ワットを食うという問題があった。当時の日本の家庭用電気は100ワットが限度。改良が必要だった。
モーターの担当となった山下は100ワットで動くモーターの試作をするが、スイッチを入れた途端に煙が出て焼けてしまう。しかし井植は動じない。井植はこの洗濯機を皮切りに家電の時代を日本にもたらすことを考えていた。しかし当時最大手の東芝も洗濯機の開発に乗り出したことを聞き、山下らは「勝ち目がない」と考える。しかし井植は「ライバルは他者ではない。お客の心だ。」と言う。その言葉の意味が分からなかった山下だが、1月前に結婚した19才の妻の房江の手が赤く腫れ上がっているのを見て、井植の言葉の意味を理解する。彼女たちにとって洗濯機が必要なのだ。
昭和28年2月、山下は100ワットでも馬力の出せるモーターの開発に成功する。試作機を作り洗濯の実験を開始する。洗濯の効率を上げるために洗濯槽の底を四角くしてさらに角を非対称にすることで複雑な水量を起こすことで洗濯力を上げた。井植はさらに「どんな汚れでも落とす方法を見つけろ」と命じる。彼らは洗濯屋などを回って事前の処理によってほとんどの汚れを落とすための18ページの洗濯マニュアルを作成する。
しかし売り出し前に価格を計算すると6万円になっていた。井植は半値以下に下げることを命じる。タンクを安く作るために大量生産出来るプレス工場を探す。そして大阪の山根金属工業に井植が目をつける。大手メーカーにいた復員工が戦後に作った町工場だった。再起をかけるこの工場に井植はタンクのプレスでの製作を委託する。職人達は困難な課題に取り組み、ついに三段階のプレスによってタンクを作ることに成功する。そして昭和28年8月、半値に下がった洗濯機が完成する。
販売の苦戦に伝説の営業マンが立ち上がる
しかし営業担当の岡田隆夫は販売店の男に「洗濯は女の仕事だろ」と言われる。女性達は洗濯機を見るが「欲しいけど贅沢です。夫に買ってとは言えません」と言う。岡田はどうやって売れば良いのかに困る。
販売の苦戦を聞いた井植は百科事典に雑誌に栄養学の本を読み漁る。洗濯機を売るためには女性が夫を説得出来ないといけない。井植はびわ湖の工場に営業マンと販売店の店主を集めると、井植は「これから私が実演販売の手本を見せます」と告げる。「女性が洗濯板で選択をすれば卵2個分のカロリーを消費します。さらに時間のロス、肩の凝り、これらをお金に換算すると280円になります。洗濯機なら25円で済みます。女性の家事が楽になれば家族も喜び楽しみが増えます。それは一家の大きな収入です。」伝説の営業マンのトークに営業マン達はうなずき奮い立つ。
全国の電気店が大手電気店の傘下であることも障害となっていた。そこで井植は、会社の主力製品である自転車用の発電ランプを120個契約すれば、洗濯機をただで提供すると自転車店に呼びかける。これに多くの自転車店が飛びつく。そして各地の自転車店で洗濯機が実演され、多くの人々がそれを見に来るようになる。全国6000軒の自転車店が洗濯機を置く。
営業マンの岡田は「洗濯物を絞るのが大変」という意見を聞いてくる。開発陣は直ちにローラー式の絞り器を開発する。井植は「絶対に価格を上げるな。目先の儲けよりも市場の開拓だ。」と指示する。営業マン達の実演販売に多くの女性達が興味を示す。そして最後の武器が洗濯マニュアルである。女性達は目を輝かせて「主人に相談してみます」と答える。そして洗濯機は年間6万台を越える空前の大ヒットとなる。工場はフル生産に追われる。倒産工場の奇跡の再生であった。
三洋電機誕生及び家電時代の幕開けのエピソードであったが、三洋電機はその後、松下に吸収された上で中国に売り払われて事実上消滅してしまった。今回のエピソードが日本の家電メーカーの勃興の物語だとすれば、三洋電機の消滅はまさに日本の家電メーカーの没落を象徴する出来ことであった。
思えばその少し前ぐらいから、日本の家電メーカーの出す商品が、顧客の都合よりも自分達の事情ばかりを優先する商品ばかりになってきて、この調子だといずれダメになると私は予想していたのだが、その後の転落ぶりは私の想像をも越えていた。井植は「ライバルはお客の心」と言っていたが、もろにその心を見なくなった結果であった。現在の日本メーカーの体たらくを見れば、あの世の井植はどういうだろうか?
次回のプロジェクトX
前回のプロジェクトX