教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/1 BSプレミアム ダークサイドミステリー「どこへ?消えた1万人の子どもたち~隠された「児童移民」の闇~」

密かに子供たちが海外に送られていた

 今回は永らく隠されていた英豪の歴史の恥部とも言える物語。イギリスの養護施設の子供たちがまるで奴隷売買のようにオーストラリアに送られていたという事件である。

 そもそも事件発覚のキッカケは1人のソーシャルワーカーの疑問からだった。イギリスのノッティンガムのソーシャルワーカーのマーガレット・ハンフリーズは養子として成長した人物の心のケアに取り組んでいた。彼らは「なぜ両親は自分を手放したか」などからの「自分は一体誰なのか」というアイデンティティの疑問を持つことがあり、彼女はそういう人たちのケアに取り組んでいた。その彼女の元にマデリンという40代の女性からの相談が来る。彼女は両親が亡くなってノッティンガムの養護施設で暮らしていたが、名前も生年月日も曖昧なまま4才でオーストラリアに送られたという。この話に驚いた彼女はロンドンの総合登録管理局を訪れてマデリンの出生記録を探すと、母親の名前を発見する。そして母親を辿ったところ、マデリンがオーストラリアに送られた後に再婚して今も生きていることを見つける。そこで母親を訪ねた彼女は、母親が貧困のために仕方なく娘を養護施設に預けたが、マデリンが養子になったと聞いていてオーストラリアに送られたことは知らなかったという。ここでマーガレットは異常な現象が起こっていたことに気付く。

     
児童移民の実態を告発したマーガレットの本

 

 

政府や慈善団体が関与していた

 1987年1月、オーストラリア・メルボルンでマーガレットは現地の新聞に「1940年代から50年代に親の付き添いなしでイギリスからオーストラリアに送られた人について、調査したいので連絡を欲しい」という広告を出す。すると1ヶ月も経たないうちに10通以上の手紙が届く。そこには自分が何者か分からない彼らの怒りや苦しみが詰まっていた。なぜこのようなことが起こったのかの調査を始めたマーガレットの元に、夫が公文書館で児童移民制度についての情報を仕入れてくる。これは大英帝国が植民地に子どもを大量に移住させることで、植民地での白人の人口を増やして先住民に対して優位性を保とうとした政策だという。19世紀後半から20世紀前半にかけてカナダやジンバブエ、ニュージーランドなどに15万人が送り出され、特にオーストラリアへは1967年まで続いていたという。貧困家庭の子どもたちを送り出したのだという。しかもこの活動にイギリスの複数の歴史と伝統と社会的信用のある慈善団体(王室が後見していたところまで)が関与していたという。

 オーストラリアに渡ったマーガレットは多くの児童移民が送られたシドニーで聞き取り調査を開始する。彼らの証言によると新天地で楽しく暮らすと言われてきたが、実際は荒れ地に送られて開墾に従事させられたという。読み書きすら教えられず、施設から出た後も貧しい生活を強いられたという。またイギリスから切り離すために名前から生年月日まで自分の存在に纏わるものはすべて捨てさせられたという。名前でなく番号で呼ぶ施設まであったという。子供たちから希望を奪ってコントロールしていたのだという。まさに奴隷である。実際に西部に送られた子供たちは自らの手で修道院の建設までさせられたという。神父達は暴力を奮いまくっていた上に、性的虐待も横行していたという。当時の大司教の言葉などから、イギリスから子どもを連れてきてはオーストラリアの労働者に仕立て直すことが目的だったことが分かるという。また慈善団体はこのことで国から補助金をもらっていたのだという。1987年7月、マーガレット共に調査したジャーナリストによってこの児童移民の件が記事にされる。そして世間は大騒ぎになる。

 

 

隠蔽しようとする政府、しかしついには真相が明らかに

 マーガレットは彼らを支援するための団体を立ち上げた。家族との連絡や仲介などを行っていたが、誰がこのような制度を進めたかの謎にはなかなか迫れずにいた。また移民の身元探しをしようとして慈善団体に相談しても、記録は存在しないなどとあからさまな隠蔽が図られていた。また社会的な関心が高まるにつれて、マーガレットの元には脅迫電話がかかってきたり直接に押しかけて脅迫するものまで現れたという。そんな時に差出人不明の封書が届けられ、恐る恐る中身を確認するとオーストラリア政府の児童移民に関する公文書であった。そこには1945年1月にオーストラリア首相の「これより3年間にわたり5万人を移住可能にすべく的確な児童を捜し求めるように提案する。戦争で多数の孤児、浮浪児が生まれたことはオーストラリアにとって幸運である。」との発言が記録されていた。国絡みだったことが明らかになったのである。

 1993年7月、児童移民の件がテレビドラマ化されてイギリスで放送される。これが大きな反響を呼び、ついに1993年11月2日、イギリス下院でこの件が議会で追及されることになる。メージャー首相はイギリス政府に問題はないと政府の責任を否定したが、5年後下院保健委員会が調査を開始、そして聞き取り調査による公的報告が出る。ここでは政府の監督責任が明確に記される。慈善団体が子どもを海外に送る際の規則を政府が作成するはずだったのに、放置して丸投げしていたことが明らかとなったのである。報告書は「児童移民は邪悪かつ人間的な言い方をすれば代償の大きい過ちであった」と結論づけた。

 その後もイギリス政府もオーストラリア政府も責任を認めようとせず、過去のことで決着済みという対応だった。しかし2009年11月、オーストラリア首相のケビン・ラッドが正式に児童移民に対して謝罪をする。イギリス政府の動向に世界の注目が集まる中、翌20102月、イギリス首相のゴードン・ブラウンが正式にイギリス政府の責任を認めて謝罪を行う。事件の発覚から20年後のことであった。

 

 

 ひどいことをするもんだと言うところだが、最終的に正式調査を実施して、結果的には政府が公式に謝罪したというところはさすがにイギリスだと思う。日本だったら終始一貫「そんな事実は存在しない」と否定し続けて、関連資料のシュレッダー処分やら捏造ばかりを必死で進めるだろう。報道しようとするジャーナリストがいたら政府に露骨に圧力をかけられて、政府に雇われた連中が嫌がらせに奔走するという状況まで想像できる。

 オーストラリアが特に児童移民を進めていたというのは、悪名高い差別政策の「白豪主義」が根底にあり、とりあえずイギリスの子どもを移民させてオーストラリアを白人の国にしようという意図が明白であった。と言うことはイギリス人と言っても白人以外はノーサンキューだったんだろう。安い労働者として児童をこき使うというのは産業革命の頃には多かったが、この時代にはタブーになっていたと思っていたのだが、実際は何だかんだでまだあったということか。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・イギリスが植民地の白人人口を増やして先住民を圧迫するために、19世紀~20世紀にかけて子どもを移民させる政策をとっていた。
・特にオーストラリアでは1967年までに15万人の養護施設の子どもなどが移民として送り込まれた。
・彼らは無断で移民として送られた挙げ句に、名前などの自身のアイデンティティも奪われた状態で、過酷な労働などに従事させられたという。
・移民は多くの伝統ある慈善団体が関与しており、これらの団体には補助金も出されていた。
・この件はソーシャルワーカーのマーガレット・ハンフリーズによって調査され、1887年には新聞記事にもなるが、当初はイギリス政府もオーストラリア政府も関与を認めず、支援団体を立ち上げたマーガレットは脅迫を受けることになる。
・しかし1993年にこの件をテーマにしたドラマが放送されて一気に世論が沸騰、イギリス下院でこの件が追及され、5年後には下院保健委員会が調査を開始、イギリス政府の責任を認める報告書を作成する。
・その後も責任を認めようとしない両国政府だったが、2009年11月オーストラリア首相のケビン・ラッドが正式に児童移民に対して謝罪、翌20102月イギリス首相のゴードン・ブラウンが政府の責任を認めて謝罪する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・ひどいことをしたのは間違いないが、最終的に政府が責任を認めて謝罪をしたというのは、さすがに腐っても民主主義発祥の国イギリスと言うところか。特にメディアが果たすべき役割を果たしている事が分かる。
・またイギリスでは政権交代があるということも大きい。これが起こらない日本では権力は腐敗する一方で、メディアも強大な権力を持つ政府にひたすら媚びるのみ。これでは悪がのさばることになる。