教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

10/19 BSプレミアム ザ・プロファイラー「国を傾けた禁断の恋~玄宗と楊貴妃~」

楊貴妃は悪女だったのか?

 今回のテーマは唐の玄宗皇帝と楊貴妃。若き日は名君として知られた玄宗が楊貴妃に溺れたことで結局は帝位を追われることとなり、楊貴妃も悲劇的な最期を遂げることになる。そのことから「傾国の美女」とも言われる楊貴妃であるが、その実態は?

「傾国の美女」楊貴妃

 

 

名君だった若き日の玄宗

 玄宗が生まれた頃は唐は則天武后が君臨していた時代であり、玄宗はその祖母を見て育つことになる。則天武后は権力奪取の過程でかなり強引な手法を使ったことで悪女ともされるが、少なくともその政治力においては有能であった。彼女は玄宗の器量を見込んで、側近として官僚の高力士をつけるなど目をかけていた。三男で本来は帝位を継ぐ立場でない玄宗は、スポーツに励み、また町に出るので庶民などの生活についても知っていたという。

若き日は名君だった玄宗

 則天武后がなくなると唐は乱れ始める。まずは韋皇后が中宗を毒殺して則天武后にならって専横を始める。玄宗はそれを叔母である太平公主と協力して排除するが、皇帝となった睿宗が帝位に倦み始めたことから太平公主が台頭することになって玄宗と対立するようになる。そして太平公主はついに玄宗の排除を計画するが、その前日に玄宗は王宮守備の300の兵を味方につけて逆にクーデターで太平公主を殺害、実権掌握に成功する。

 皇帝となった玄宗は税と兵役の負担に耐えかねて領民が流民化する問題に対して、彼らが再度戸籍に登録すれば数年税を免除することと、兵を金銭で雇用することで農民の兵役負担をなくすことで流民の再登録が増加、税も増えて唐の財政は改善する。また運河を整備して物流や交易を盛んにするなどで唐の国力も増す。これらの政策は開元の治と称され、玄宗は名君として名を上げることになる。

 

 

楊貴妃と出会ったことから歯車が狂い始める

 しかし50才を過ぎた玄宗は寵妃武恵妃を亡くしたことで落ち込むようになる。そこで高力士が国中から美女を探してきたが、玄宗はそれらに興味を示すことはなかった。そんな時に玄宗が出会ったのが息子寿王の妃となっていた楊玉環であった。玄宗は気に入り後宮に入れたがるが、さすがに息子の后を自身のものにするのはたとえ皇帝でも世間体があった。そこでまず楊玉環を寿王から引き離して寺院に入れる。そして5年後、玄宗は楊玉環を貴妃として後宮に入れる。これが楊貴妃の誕生である。

 玄宗は楊貴妃に入れ込んでいくことになる。楊貴妃は後宮3000人の女性達に向けられる寵愛を独占することになる。玄宗は楊貴妃の舞に魅了され、夜な夜な宴会を行ったという。玄宗61才、楊貴妃27才である。

 こうなってくると玄宗は煩わしい政務が疎ましくなってくる。楊貴妃は則天武后などのように政治に口出しをすることはなかったが、玄宗が政治を部下任せにするようになってくる。また楊貴妃を寵愛したことで楊一族も取り立てられることになる。そんな中で宰相となって重用されたのが楊貴妃の又従兄弟になる楊国忠だった。経理の才能には長けていたが、反発勢力を追放するなど専横が目立ったので人望はなかった。また大将軍である安禄山は異民族出身だが玄宗と楊貴妃に露骨に媚びて信用を得ていた。この両者は権力を巡って対立、楊国忠は安禄山に謀反の気配ありと度々進言したが、玄宗はそれを信用しなかった。

 

 

ついに悲劇的な結末を迎えることに

 西暦755年、玄宗71才、楊貴妃37才の時についに安禄山が楊国忠を討つとして、長安に向けて兵を進めているという報が入る。洛陽が陥落したところで楊国忠は玄宗に楊貴妃と楊一族、一部の家臣だけをつれて楊氏の本拠である蜀への脱出を持ち掛ける。玄宗は側近に別の方法はないかと意見を求めたが、楊国忠から安禄山の謀反の危険性は度々指摘していたと言われて玄宗は従うしかなかった。こうして玄宗は楊貴妃や楊一族を引き連れて護衛兵に守られて宮廷を脱出する。長安城西の橋を渡り終えた時に、楊国忠は追っ手が来ないように橋を焼こうとしたが、玄宗はそれでは人々が長安から抜け出せなくなると中止させる。

 翌日、一行は馬嵬という集落にたどり着くが、ここで変事が起こる。満足な食事も与えられずに疲弊した護衛兵達が、安禄山の謀反を招いた楊国忠を殺害したのである。そして楊一族も次々と殺害し、彼らの敵意は楊貴妃に向かう。兵士の動揺を防ぐには楊貴妃を処置するしかないと高力士は玄宗に進言、玄宗は楊貴妃に罪はないと抵抗するが、楊貴妃が玄宗にのそばにいる限りは兵士たちは安心出来ない(既に楊一族を殺害しているのだから、楊貴妃によって処罰される可能性がある)と高力士に言われると従わざるをえず、高力士に一切の処置を任せるという。そして楊貴妃は絹で首を絞められて殺される。

 43日後に蜀に到着した玄宗は息子の粛宗が許可無く皇帝に即位したことを知る。玄宗は皇位を失ったのである。しかし長安を支配した安禄山も、翌年に後継者争いで息子に殺害され、757年に唐軍は長安を奪回する。この時、玄宗73才。長安に戻った玄宗は皇帝の地位も権威も失い、在りし日の楊貴妃の姿を描かせて日がな一日眺めていたという。そして762年、78才でこの世を去る。

 

 

 とまあ非常に悲劇的な話である。ただ玄宗が楊貴妃に勝手に溺れたのであって、楊貴妃自身は積極的に玄宗を堕落させようとしたわけでもない。自身の地位を守るために玄宗の愛情を独占しようとしたのは確かだろうが、それで政務をおろそかにしたのは玄宗の責任であって、傾国の美女と楊貴妃のせいにされるのはいささか気の毒でもある。

 名君と言われていた玄宗も、50を過ぎれば能力も意欲も衰えてきたろう。さらに独裁国家の皇帝は本人が真面目に務めようとすればするほど激務である。玄宗もそろそろ疲れてきたところで、楊貴妃という自分の好みにドンピシャの美女と出会ったことで、深入りしてしまったのだろう。実際はそうなる前に次期皇帝に譲位して楽隠居すれば良かったのだが。なお議論の中で「人を見る目ももう衰えていたんだろう」という話も出ていたが、確かに楊国忠や安禄山を重用したのがそもそもの大失敗であったと言える。彼らが真に有能な忠臣であったら、玄宗も楊貴妃と悠々自適な晩年を送れて、名君としての名を残せたのだろうが。

 ちなみにこの番組でもチラッとでてきたが、楊貴妃はふくよかというか、かなり肥満の女性だったという話がある。とにかくこの時代は今とは美意識がまるで違うから、今時のガリガリモデルなどは美しいとは対極の醜い扱いだったはずである。そんな中でも楊貴妃はかなりふくよかであったという記述があるようで、その身体で軽快に舞うところが玄宗に気に入られたとか。どうやら玄宗はデブ専だったようである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・玄宗は則天武后死後の混乱を平定して帝位に就き、税制改革や商業振興などで唐の国力を増し、その治世は開元の治と呼ばれて名君と言われた
・しかし50歳を過ぎて寵妃武恵妃をなくしたことで鬱々とするようになる。そんな時に出会った楊貴妃に心奪われることになる。
・楊貴妃は当時は息子の寿王の妻だったことから、玄宗は一旦彼女を寺院に入れ、5年後に後宮に入れる。それから玄宗は楊貴妃を寵愛し、それと共に段々と政務がおろそかになっていく。
・やがて楊貴妃の一族から取り立てられた宰相の楊国忠と、異民族出身の大将軍の安禄山が対立するようになる。そして755年についい安禄山を楊国忠を討つとして反乱を起こす。
・玄宗は楊国忠の進言に従って楊貴妃と楊一族らを引き連れて蜀への逃亡を図るが、その途中で護衛の兵達が乱の原因となった楊国忠を殺害、さらに楊一族も殺害し、楊貴妃の処置も要求することになる。
・事ここに至って玄宗はやむなく楊貴妃を殺害させる。その後、安禄山は内紛で殺害され、長安も奪還されたが帝位も権威も失って帰還した玄宗は、在りし日の楊貴妃の姿を描かせた絵を見ながらぼんやりと日々を送ることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・最悪の老いらくの恋の形になっちまったってことです。だから高齢になってから恋なんてするなという気はサラサラありませんが、年齢に関係なくとにかく溺れちゃダメです。