教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

10/18 NHK 歴史探偵「本当はスゴい!織田信雄」

信長のバカ息子こと信雄アゲという無理くり企画

 諸般の理由で視聴率を始め惨憺たる状況になっている今年の大河「どうする家康」であるが、何が何でも大河の宣伝をすることを使命としているこの番組は、今回は無理矢理大河関連企画で、まさかの織田信雄アゲという無理すぎ企画をやっている。とりあえず大河で信雄を演じたという浜野謙太をゲストに招いて、無理矢理の大河の宣伝。しかしそもそも信雄とは歴史マニアや研究者の間では「信長のバカ息子」で評価の固まっている人物。どういう無理筋アゲをするつもりやら・・・。

織田信雄像、肖像自身は信長にそっくりである

 

 

本能寺の変の後、裏で活躍していたという無理矢理解釈

 まず清洲城の金瓦から信雄は天下人としての資格があると見られていたとしている。そう、確かに資格はあったのである。血筋だけは・・・。で、番組では信雄が評価されたのは、本能寺の変後に伊賀で反織田家の反乱があり、伊賀を治めていた信雄は信長の敵討ちよりもその鎮圧を優先していたという。それはもし伊賀から織田家の勢力が駆逐されるとなると、近畿一帯が光秀の影響下に落ちかねない危険があったからだという。だから信雄はその後にその功が評価されて尾張を得て90万石の大大名となった。

 としているんだが・・・実際は信雄は領内の反乱への対応に奔走させられて、光秀討伐に加わるどころでなかったというのが界隈での評価である。実際に私もそれに同意。そもそも光秀の影響の拡大を防ぐためなんて言っても、それよりも先に光秀を討ってしまえば良いだけのことである。尾張を獲得したのは、功績が評価されたというよりも、まさに「血筋」故であろう。

 

 

賤ヶ岳の合戦の裏でも大活躍という無理矢理こじつけ

 そうして信長の後継としての座を固めた?信雄であるが、弟の信孝がライバルとして浮上する。信孝は山崎の合戦の総大将をしていたので、家中での評価が急上昇したのだという(ほら、やっぱり信長の敵討ちが大事じゃん)。そこで信雄は信長の後継者であるという立場を明らかにするために、信長の兜を本能寺の焼け跡から回収し、信長の供養のための寺を建立したという。また花押も信長のものに似せたものを使用したという(地味なアピールだな)。そして転機となったのは柴田勝家が信孝を担いで実権を握ろうとした時である。賤ヶ岳で睨み合う勝家と秀吉だが、そこで岐阜の信孝が兵を上げたので秀吉が挟み撃ちのピンチ、ここで重要な役割を果たしたのが信雄で、安土城に入って秀吉と連携して勝家達を牽制した結果、秀吉が勝家を撃破してから信雄は信孝を討った。この時に秀吉は信雄に敬意を表する文書を送っているという。

 とのことなんだが、やっぱりここでも信雄の活躍をかなり盛っている。信雄が勝家と信孝を牽制したように言っているが、実際には信孝挙兵を聞いて秀吉は直ちに岐阜に向かって牽制、その間に勝家が攻撃をかけてきたとの報に急遽反転して勝家を撃破しただけで、この時点での信雄の活躍はなし。その後の信孝攻めは勝家を失って孤立してどうしようもない信孝を、秀吉に言われて降伏させに行っただけである。むしろ秀吉が信雄の顔を立ててやったのが実情だろう。

 こうして信雄は後継者争いを制したのであるが、秀吉が大坂城を築いたことで実質的権力者となったことから、信雄の天下は事実上数ヶ月しかなかったという(微妙にアゲきれていないじゃん)。そして秀吉と対立することになった信雄は家康を味方につけて小牧長久手の戦いが勃発する。

 

 

小牧長久手の戦いでも裏で大活躍というウルトラ解釈

 この番組は当然のようにこの戦いでの信雄の活躍も大いに盛りまくる。この戦いでは小牧城に籠もって奮戦する家康を引きずり出すため、秀吉が別働隊に清洲を攻撃させるのであるが、その別働隊6000が岩崎城の守備兵300に引っかかっている間に、家康が電光石火で別働隊を叩いたために信雄側の大勝利となったとしている。そしてその岩崎城は信雄が秀吉との戦いに備えて尾張に配備した城郭群の一環であり、信雄の戦略構想が成功したことになる。そしてこの勝利を得て信雄、家康がそれぞれ秀吉と講和交渉と言うことになり、信雄の方はすぐにまとまるのであるが、家康の方は頓挫する。そして秀吉と家康の全面衝突かというところで講和の仲介に奔走したのが信雄であり、おかげで家康は滅亡を免れた。

 と言っているのであるが、実際に信雄と家康の連合軍が秀吉の別働隊を壊滅させたのは事実だが、これはあくまで家康軍の働きがあってのことで、信雄が築いたという守備網はその後、秀吉方の攻撃でかなり分断されている。そして結果として秀吉は信雄の方が組やすしと見て、信雄に的を絞って講和を勧め、旗色の悪くなった信雄は家康に無断でそれに応じたというのが実際である。そして秀吉はあくまで家康を滅ぼすつもりでいたが、それが頓挫したのは以前にも言っていたように天正地震での大被害による。

 

 

2度もの改易を経て、グダグダながらしぶとく生き残った晩年

 結局なんだかんだで秀吉政権の中枢に入った信雄は、正二位内大臣という信長以上の官位を秀吉の後押しで得るが、小田原合戦に参戦後に関東に国替えになった家康の旧領への国替えを秀吉に命じられるが、これを拒絶して秀吉を怒らせて官位剥奪の上で改易されてしまっている(ダメダメじゃん)。で、牢人になってしまった信雄だが、織田家再興を目指して家督は嫡男の秀雄に譲って自らは出家する。これを評価した秀吉は越前大野5万石の領地を与えて、織田家は大名として復活することが許される。しかし秀吉の死後の関ヶ原の戦いで、織田家の末裔として去就が注目された信雄は日和見をしていたのだが、越前にいる息子の秀雄が西軍に参加してしまったために改易されてしまう(またもダメダメである)。こうして信雄は再び牢人生活に舞い戻ってしまう。

 14年後、信雄にとっての転機となるのは秀頼と家康の対立だという。信雄は秀頼の相談役として大坂城に召し出されるが、そこで「豊臣方が信雄を大将に据え、大坂城に籠城することを計画している」という話を聞き、信雄は慌てて戦い前に抜け出すと家康の元に駆けつけて、これを報告して「織田家は家康に付く」ということを約束した。これが評価されて、大坂の陣後に信雄は5万石の大名となり、それが明治になるまで続いたという(その末裔が織田信成である)。というわけで織田家を残すことには成功するのである。

 

 

 ということで、無理矢理に信雄アゲしようとしていたが、あまりに無理筋過ぎて後半には完全にグダグダになり、「やっぱり信長のバカ息子だった」という評を覆すところまでは行かなかったのが今回の内容である。まあ信雄を評価するとすれば、最後は秀吉や家康に頭を下げまくってでも織田家を残したということであろう。実際にプライドの高かった信孝は意地を通して自害させられているのだから。あるところで完全にプライドを捨ててひたすら生き残りに奔走したという点は評価されても良いかもしれない。

 で、番組自体がグダグダになってしまったが、そもそもの大河の宣伝という点でもグダグダである。このグダグダっぷりは、上から無理筋の大河の宣伝企画を命じられたが、今更どうすればいいねんとプロデューサー辺りが頭を抱えてしまった結果ではという気もしないでもない。よりによって信雄アゲとはやけくそとしか思えん。そもそも今回の大河、あのシナリオで主演が松潤の時点でどうにもならんのだから。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・本能寺の変の後、信雄は伊賀での反織田家の反乱を鎮圧することで光秀の勢力拡大を阻止した・・・と番組はしているが、実際にはそれに翻弄されて光秀討伐に参加する余裕がなかっただけでは。
・小牧長久手の戦いでは、尾張防衛の堅城網を構築したことで秀吉の別働隊を粉砕することに成功し、その勝利を得て秀吉との講和を成立させた・・・しているのだが、実際は家康よりも御しやすいと秀吉にターゲットにされただけである。
・秀吉と家康の講和仲介して対立を防いだ・・・としているが秀吉が家康と講和したのは天正地震での大被害のせい。
・信雄はその後、家康への旧領への国替えを拒絶して秀吉に改易させられている。織田家再興を目指して家督を嫡男の秀雄に譲って出家したことを秀吉に評価されて5万石の大名となって織田家を再興するが、関ヶ原の合戦で信雄が日和見をしている間に秀雄が西軍に参加してしまったことで再び改易となった。
・最終的には大坂の陣の時に豊臣方から大将に担がれそうになったことで脱出、家康に付くことを誓ったことで大名に復帰、そのまま明治まで織田家を残すことに成功する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・名誉回復といってもやっぱり状況を説明すれば説明するほどグダグダになるだけで、本当に今回の番組の趣旨は不明だわ。上から無茶振りされて、制作者が相当行き詰まっちまったんではないかと同情するわ。

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