教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/18 BSプレミアム ザ・プロファイラー「ヒトラーが憧れた独裁者 ベニート・ムッソリーニ」

ヒトラーが手本にした男

 史上最悪ともいわれる悪逆なる独裁者がアドルフ・ヒトラーだが、彼が憧れて参考にしたという独裁者がイタリアのムッソリーニだという。そのムッソリーニとはいかなる人物であったのか。

ムッソリーニ

 ムッソリーニは小さな農村で貧しい鍛冶職人の息子に産まれたという。父は稼ぎが少なく社会主義者で資本家の批判ばかりしていたという。ムッソリーニは学生時代に成績は優秀だったが、ケンカをしてナイフで上級生を傷つけるなど問題児だったという。18才でイタリア人にとっては格好の出稼ぎ先だったスイスに行く。しかし肉体労働に耐えられずに失業、手を差し伸べたのがイタリアから来ていた社会主義者達で、ムッソリーニは彼らの元で政治活動のイロハを習得する。21才の時に母の病気でイタリアに帰国、その頃に銅鏡のラケーレと結婚して子供も産まれる。ムッソリーニは社会に不満を持ち、社会党に入って機関誌で「正義のための暴力は許される」など過激な主張を繰り広げて機関誌の売り上げを増やし、党内で出世していく。

 

 

第一次大戦をキッカケに全体主義を志向するようになる

 しかし第一次世界大戦の勃発が彼の運命を変える。イタリアは当初は中立の立場を取っており、ムッソリーニら社会党も戦争には反対の立場だった。しかし開戦3ヶ月後、ムッソリーニは参戦を支持するようになる。ナショナリズムが目覚めたのだという。また国を超えて労働者が連帯して新体制を築くという社会主義の理念が、戦争によって社会主義者が完全に国ごとに分裂して消滅してしまったことも影響しているという。

 1年後、イタリアは連合国側で参戦することになる。3ヶ月後にムッソリーニも招集されオーストリアの国境地帯に送られるが、イタリアは無謀な作戦で多くの犠牲者を出し、ムッソリーニも重傷を負って除隊する。しかしムッソリーニは塹壕で若い兵士たちが立場を超えて団結するのを見て、彼らの結束が国を変えることになると考える。

 戦争は終了、イタリアは勝利側であったが65万の戦死者を出し、経済もインフレでガタガタとダメージは大きかった。また300万の帰還兵の半数は仕事がなく、社会は混乱して革命前夜の様相を呈する。社会主義に見切りをつけていたムッソリーニは同志を集める。集まった100名ほどは戦士のファッシ(結束の意)と名付けられた。彼らは社会主義者達を暴力で攻撃する。彼らは軍の突撃隊の黒服を着ていたことから黒シャツ隊として恐れられることになる。国家の利益を最優先にして国民を弾圧するファシズムの誕生である。

 

 

クーデターで独裁者となる

 1921年、ムッソリーニは国会議員に当選してファシスト党を結成する。ファシストが急速に勢力を伸ばしたのは、資本家や地主が社会主義によって自分達の権益が侵害されることを恐れてファシストを応援したからだという。さらにムッソリーニはファシストの組合に所属すれば就職が有利になるようにするように資本家達と交渉、これでファシストはさらに勢力を拡大する。しかし国会では少数派でこのままでは首相にはなれない。当時のイタリアは国王が首相を任命する仕組みになっており、ムッソリーニは国王に直接認めさせようと4万の黒シャツ隊をローマに向けて進撃させる。これがローマ進軍のクーデターである。しかしこれは賭けであった。国王が戒厳令を布告したら、黒シャツ隊は軍隊に鎮圧される可能性があった。しかし結果的にムッソリーニは賭けに勝つ。国王は政府の要請に従わず戒厳令を出さなかった。内戦を避けるためだったともいわれている。こうしてムッソリーニは33才で首相になる。この強引なやり口を国会議員のマッテオッティは激しく非難するが、彼はファシストによって殺害される。

 流石にこの暴挙は世論から激しい非難を受けるが、ムッソリーニはそれに対して言論や集会の自由を禁ずる強攻策に出る。こうしてイタリアの自由主義は崩壊する。独裁者となったムッソリーニはローマ帝国の再興をスローガンにし、右手を挙げるローマ式敬礼を復活させる。またローマ帝国に倣って自身をドゥーチェと呼ばせる。政策としては小麦の生産を増加させるなどの方策をとる。ムッソリーニの強力な手腕は外国からも注目され、国民は彼に熱狂する。

 

 

ヒトラーとの接近

 そのムッソリーニを参考にしたのがヒトラーだった。彼のミュンヘン一揆のクーデターはローマ進軍に触発おり、ローマ式敬礼も採用、黒シャツ隊をモデルに突撃隊を組織した。また自らの呼称フューラーはドゥーチェのドイツ語訳である。

 1934年に2人はヴェネチアで初会談するが、ムッソリーニを高く評価していたヒトラーに対し、ムッソリーニはヒトラーのことを「狂っている、道化師だ」と評価したという。またムッソリーニはヒトラーの反ユダヤ政策にも批判的だった。

 ムッソリーニが52才の時、1935年にイタリアはエチオピアに侵攻、イタリアがかつて侵攻に失敗した国だった。国際法で禁止された毒ガスまで使用して半年で勝利を収めるが、エチオピアの併合は国際社会から認められなかった。しかしこれが国民の愛国心を高めてムッソリーニの支持は上昇、またヒトラーのみがイタリアの行為を支持した。さらにスペイン内戦で2人はフランコ支持で接近する。そしてドイツを公式訪問したムッソリーニはナチスの軍事力に驚いて態度を改める。彼はヒトラーに接近、翌年に反ユダヤ法を制定、さらには鋼鉄条約という軍事条約を締結して運命共同体となる。

 ドイツは強力な軍事力を背景にオーストリアを併合するなど、戦争に向かって進んでいく。しかしムッソリーニはイタリアの軍備の生産能力はイギリスやフランスの1/3に過ぎず戦争ができる状態でないことを知っていた。ムッソリーニはヒトラーに「イタリアには準備期間が必要でそれは1942年中かかる」という手紙を送っている。

 

 

ヒトラーに振り回されて破滅する

 しかしヒトラーはイタリアを無視、1939年にポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まる。イタリアはしばらく中立の立場を取るが、翌年参戦を決定する。ドイツ軍がフランスのパリに迫っていた時期であり、勢いに乗ったヒトラーがこのままだとイタリアに侵攻してくることを恐怖してのことであった。1940年、イタリアは日本とも同盟して枢軸を結成、ギリシアやエジプトに進軍するが失敗、アフリカでは12万人以上が捕虜となる。ムッソリーニはヒトラーに救援を要請、戦力で劣るイタリア軍はドイツ軍の指揮下に入るという屈辱的な状況になる。

 翌年にはドイツはソ連に侵攻、これにムッソリーニは狂気だと驚愕する。そして彼の予想通りここからドイツは劣勢になっていく。さらにアメリカの参戦で枢軸側は追い詰められていき、イタリア国内でも厭戦ムードが高まってくる。30万人が反戦運動を起こす事態になり、1943年に連合国軍がシチリア島に上陸すると、国王はムッソリーニを解任、幽閉し、イタリア新政府は連合国に降伏する。

 しかしその4日後、ドイツの特殊部隊が幽閉されていたムッソリーニを救出、ヒトラーはムッソリーニを立ててイタリアに傀儡政権を作ることを画策していた。しかしムッソリーニは心身共に疲弊していて、既に個人的野心を失っていた。しかしヒトラーはムッソリーニが従わないならイタリアはポーランドと同じ運命を辿ると脅迫する。こうしてムッソリーニはミラノを拠点に傀儡政権を樹立、南部のイタリア政府と内戦状態に入る。犠牲者は8万人にのぼる。次第に敗色が濃厚となったムッソリーニはスイスへの逃亡を図るが、蜂起した民衆に捕まって殺害され、その遺体はミラノの広場にさらされる。

 

 

 以上、ヒトラーが参考にした独裁者、ムッソリーニの生涯。しかしこうやって見ると見事なほどにヒトラーは彼の真似をしているのは明らかである。ただ間違いはムッソリーニの当初の見立て通り、ヒトラーは狂人であったということである。結局はその狂人に巻き込まれて、自身の命運も尽きてしまうことになったということになる。いくらムッソリーニが突っ張ったところで、ヨーロッパ内の後進国だったイタリアでは英仏などに伍していくのは不可能だったということである。恐らく本人はそのことを分かっていても、それでもローマ帝国の再興などという到底不可能なスローガンを掲げざるを得なかったということである。民衆を煽ったのは良いが、最終的には民衆が暴走したら押さえが効かなくなったというところもある。そう言えば日本にも大日本帝国の復活を掲げるアホな独裁者もどきがいるな。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・ムッソリーニは当初は社会党で活躍していたが、第一次大戦で各国の社会主義者が分断される中で、ナショナリズムに目覚め、国益最優先の全体主義を志向するようになる。
・彼は同志を募り、彼らは戦士のファッシ(結束の意)と名付けられた。これがファシズムの始まりである。彼らは黒シャツ隊と呼ばれ、社会主義運動を暴力的に弾圧するようになる。
・1921年にムッソリーニは国会議員となってファシスト党を結成するが、国会内では少数派だった。ムッソリーニは自身が総理となるために国王にそれを認めさせようと、黒シャツ隊をローマに向けて進軍させるクーデターを起こす。
・国王によって首相に任命されたムッソリーニはイタリア内の言論の自由などを禁止して独裁者となる。
・そんなムッソリーニを参考にしたのがヒトラーである。2人はヴェネチアで初会談するが、ムッソリーニは「ヒトラーは狂人で、道化師だ」と低い評価をする。
・その後、イタリアのエチオピア併合をヒトラーのみが支持したこと、スペインの内戦で2人がフランコを支持したことなど両者は接近、ムッソリーニがドイツを訪問する。
・そこで圧倒的なドイツの軍事力を目にしたムッソリーニは脅威を感じ、ドイツと軍事同盟を締結する。
・しかしムッソリーニの「イタリアはまだ開戦には時間を要する」との意見を無視してドイツは第二次大戦に突入、ムッソリーニも強引に大戦に引き込まれることになる。
・イタリアはギリシアとエジプトに侵攻するが失敗、多くの犠牲を出してムッソリーニはドイツに救援を要請、イタリア軍はドイツの指揮下に入るという屈辱的状況となる。
・ドイツのソ連侵攻、アメリカ参戦などで枢軸国は劣勢となる。イタリア国内でも厭戦ムードが高まり、1943年に連合国軍がシチリア島に上陸すると国王がムッソリーニ解任して幽閉、イタリアは降伏する。
・しかしドイツの特殊部隊がムッソリーニを救出、ムッソリーニはドイツの傀儡政権のトップに据えられ、イタリアは内戦状態となる。しかし次第に劣勢となり、ついにムッソリーニは市民に捕らえられて処刑される。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・それにしてもヒトラーがここまで見事に真似していたというのは驚いた。結局はヒトラーって自身が役者として振る舞うタイプの権力者だった気がするな。それと政策の基本が妄想に基づいているってところは、ムッソリーニの「こいつは狂人だ」という見立ては正しかったと思う。